夏の日

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いつも以上に暑いその夏の日、おじさんがいつものように私に覆いかぶさって「ありがとう」と言った時、おじさんの肩越しにお母さんと目が合った。 その瞬間、私は悲しみの奈落に突き落とされた。お母さんの目は憎しみに満ちていて、その視線は私を射抜いて殺しそうなほど鋭くて、固く食いしばられた口の両端は重力以上の力で下へ下へと引き下げられて牙が生えてきそうなほどだった。 思わずおじさんの体にしがみつくと、おじさんが私の顔を覗き込んできて嬉しそうに笑った。 「実花ちゃんの方から抱きついてくれたの初めてだね」 ほんのり蒸気した顔で私に苦い口を押しつけてくる。 その瞬間チッと小さく舌打ちをする音が聞こえて私はますます悲しくなりおじさんの体にきつくしがみついた。 お母さんが怒っている。そのとき初めて、お母さんはこのおじさんが私に痛かったり苦かったり気持ち悪かったりすることをするのが嫌なんだと気づいた。何故だかはわからないけど、このおじさんが私にするのは嫌なんだ。だからお母さんは私に「ありがとう」って言ってくれなくなったんだ。このおじさんがいるから、だからお母さんは私のことを嫌いになったんだ。このおじさんがいるから。 おじさんが帰ったあとお母さんは、おじさんが初めて私に直接手渡したお金を私の手から乱暴に剥ぎ取って私を睨みながらまたチッと舌打ちをした。 「一丁前に色目使いやがって」 苦々し気に吐き出される言葉に、凍えた心がもっと冷たくなる。お母さんが怒っている。お母さんに嫌われる。お母さんに見捨てられちゃう。怖い。怖いよ。どうしよう。このままじゃ私、要らない子になってしまう。お母さんの要らない子になっちゃうのは怖い。お母さんに「ありがとう」って言って欲しいだけなのに、あのおじさんが来るたび私はお母さんに嫌われていってしまう。 あのおじさんが来るのが怖い。 もう来なければいいのにだけどきっとまた来てしまうから、そうしたらまた私はお母さんに嫌われる。 おじさんが来るたびどんどんお母さんが私を嫌いになってしまう。 嫌だ。嫌だよ。お母さん、私を嫌いにならないで。 お願いだから捨てないで。 笑顔になってまた「ありがとう」って言って。お母さん。
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