プロローグ

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プロローグ

 道はそう混んでいなかった。  それでも野村諒一の指は、いらだたしげに握ったハンドルを叩いていた。  原因は、この気の狂いそうな暑さだ。  照りつける日差しは白いボンネットを叩いて、そのまま彼の目に飛び込んでくる。  ちらつく視界に、思い出したくもないのに、朝のニュースできいた天気予報を思い出してしまう。  八月四日、関東地方は晴れマークのみです、最高気温は東京で三十七度……  そこまで聞いて、ここまで暑ければクールビズの意味もないだろうとため息をつきたくなる。 「……体温より暑い。絶対暑い。四〇度ある。この車の中! !?」   ウインカーを上げて、交差点を左に曲がる。  年代物の営業車にはラジオしかオーディオ機器がなく、キンキンした声のDJがおそらくエアコンの利いたスタジオから、楽しげに音楽を垂れ流している。 『いやー、今日は本当に暑いですねー。気象庁の発表によると、本日の最高気温は予想を超えそうとのこと、だって。たしか最高気温三十七度だったよね? うわ、ひどい! 皆さん、水分はきちんと取って、なるべく涼しくすごしてくださいね~』 「涼しく過ごせる奴ばっかりじゃないっての」   腹が立ってラジオを切ってしまう。ぷつりと音は途絶えてくれたが、かわりにごぉぉぉと慰め程度の風しか送ってこないクーラーの音だけが耳につく。  歩行者に気を配りながら、ごみごみとした商店街を走りぬけ、彼は石壁に囲まれた建物の中に車を走りこませる。  愛徳女子学園  門の横には、そう書かれたプレートが埋め込まれている。 (けっ、笑っちゃうよな。愛徳だってさ)  はじめは、カトリック系の中高一貫教育の女子校の仕事だときいて、うれしくなった。実際の仕事の相手は、オッサンだろうけれど、女の子がたくさんいる環境にいけるのは嬉しいことなはずだった。だが実際に校内に入ってみると、自分の想像を大きく裏切られてがっかりしまくったというのが正直な感z層だ。  男性の目のない楽園の中で、少女たちは実にのびのびと……というよりがさつに育成していた。  校舎の裏にある駐車場に営業のポンコツ軽自動車を停める。駐車場は夏休みにもかかわらずそこそこ車が停まっていて、あいていたのは日差しがガンガンに照りつける場所だけだった。 (とことんついてない……)  触ったら火傷しそうなドアになるべく触れないようにしながらドアを閉めロックをかけると、空を見上げた。  さっきまで雲ひとつなかった空に、西のほうからすごい勢いで雲が走ってきているのが見えた。 「ゲリラ豪雨、来るのかな?」   何となくほこり臭く黄色い空気が、雨が近いことを予感させた。 「ま、ちょっと雨が降ったくらいで、この暑さがどうかなるもんじゃないしな」   かえって蒸し暑くなる方に賭ける、と彼は口の中でつぶやいた。もっとも相手のいない賭けなので、成立はしない。 「ちっくしょ、暑いな……」  校舎の向こう側に見える白いドームをうらやましげに見つめた。  そこは三年前に完成したプールで、くたびれた築六十年近い校舎とは大違いだった。真新しく、いかにも体育設備という雰囲気の漂う、よく言えば無駄のない、彼の好みからすると愛想のない建物だった。  数年後に控えた創立六十周年を新しい校舎で迎えたい、ということで、野村の会社に新校舎設立の話があり、その担当になったのが野村の上司だった。必然的に野村もその仕事を受け持つことになり、足繁くこの学校に通い、数ヶ月が経っていた。  大きな工事のスタッフとして選ばれたのはとてもうれしい。しかし、彼はこの校舎を壊してしまうのが、なんだか忍びなかった。  くるりと振り返ってそそり立つ四階建ての校舎を仰ぎ見る。  生徒達はともかく、彼はこの校舎が好きだった。  たしかに外壁にはひびが入り、もとは白かクリーム色だった色も灰色と茶色を混ぜたような色になってしまっている。  しかし設計に外国人を起用したということで、外見は普通の建物だが、内装はどことなくヨーロッパっぽい雰囲気を漂わせているのだ。 (レトロモダンな感じっていうのかな。まてよ、でもこの言葉って矛盾してるよな?)  思わず口元が笑いの形になってしまう。  大学生の時、母と祖母に付き合わされて行った、イタリアやフランスの教会や美術館をなんとなく思わせるディティールは、四角四面な物が多い校舎という「箱」 においては、結構貴重なんじゃないだろうかと野村は考えていた。  たとえば、彼らのような来客が出入りする中央玄関には、正面に階段がある。普通の倍ほどもある幅の階段は階の半ばほどで踊り場になり、階段は踊り場の左右から二階につながってゆくのだ。規模は小さいしシンプルだが、まるでハリウッド映画の豪邸のような構造だ。 そして踊り場にはアルコーブが作られ、そこにはカトリックの学校らしく、花に囲まれた大きなマリア像が人々を見下ろしている。そのアルコーブ部分のふちが、大理石のタイルで縁取られていたり、玄関の窓の一部がステンドグラスになっていたりするのが、彼は好きだった。  何より彼の気に入っているのは、普通の学校には無い、礼拝のための部屋だった。小さいが、静謐な空気に満ちて、祭壇の後には、大きなステンドグラスが光を受けきらめいていた。 「もったいないよなぁ……これ、全部壊しちゃうの。俺、こういうの大好きなんだけどな」  ―――――ソウ、思ウカ?  「え?」   いきなり、首の後ろの産毛が、ぞわりと逆立った。  垂れてくる汗が、急に氷のように感じられる。 「何だ……今の?」   彼のつぶやきに答える者はいない。校庭で練習をしているソフトボール部の掛け声と、打たれたボールの響く音だけが聞こえる。 「やばい。暑さで幻覚か?」   わざと声にだしてみる。そうすると不思議に首のこわばりが解けていくような気がした。 「さ、仕事仕事!」   書類の入った大判の封筒とカバンを持つと、野村は校舎に向かって歩き出した。
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