1.

1/1
前へ
/11ページ
次へ

1.

「ねえ、私のこと、覚えてる?」  彼女は狐のお面を被っていた。  何色もの絵の具をカラフルに使い、にっこりと笑ったような白い狐の面だ。  身にまとっているのは、桔梗の柄が入った緑の着物。帯は鮮やかな緋色だった。  彼女がお面をゆっくりと外すと、薄紅色の大きな目をした、銀髪の美しい少女が現れる。  ずっと昔、どこかで会ったような気がした。  けれども、彼は思い出せなかった。 「……覚えてないのね」  その悲し気な表情に、彼は胸を締め付けられる。  罪悪感が勝手に膨れ上がり、彼は思わずその場から逃げ出したくなった。 「ごめん……」  彼は思わず呟く。 「えっ?」  彼の妻が驚いたように振り向いた。大きな煎餅をかじったまま。 「えっ……」  彼は、目をしばたたく。  そこはリビング。彼はソファーに寝そべっていた。  いつもと何も変わらない家の中が彼の周りにあった。  つい最近まで子供たちが一緒に暮らしていて、賑やか過ぎるくらいだったが、彼らは独立して家を出て行った。  上の双子の息子たちは大学を卒業して就職、下の娘は短大に入学し、大学の近くで一人暮らしだ。  今は夫婦二人の静かな日常。穏やかな休日の午後だった。  テレビの中では何かの映画が放送されていてる。  狐面の少女が夢の産物だということを彼は瞬時に理解した。 「ああ、夢を見たんだ。何でもないよ」 「何だ、寝ぼけたの。夢の中で、誰かに謝るようなことをやっちゃった?」  煎餅を頬張りながら、妻が言う。 「狐のお面の女の子が出てきたんだ。その子を覚えてないことを何か責められた」 「狐のお面の女の子?」  妻の表情が固まった。一瞬時間が止まったようだった。  煎餅が口からポトリと落ちる。 「うん。実写というより、アニメのような感じだったかな」 「じゃ、きっと何かのアニメのキャラね。さ、さあてと。そろそろ夕方だから、お花にお水をあげなくちゃ」  妻は突然立ち上がり、そそくさとリビングから出て行った。  テレビの中では、まだ映画が続いている。  妻は、その映画を昨日から楽しみにしていた。  それなのに、これから花に水やり? しかも齧りかけの煎餅をコタツの上に置いたまま。  まあ、録画してて、またゆっくり最初から観るのかもしれない。  彼は軽く考えて、再びソファーの上で目を閉じる。 「アニメなんて、最近全く見ないんだけどな……」  再び彼はうたた寝を始めたが、狐面の少女は、もう夢の中には出てこなかった。        
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加