メロンソーダが弾けた

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 なんという名前かは分からないが、2、3種類のセミが鳴いている気がする。自分を見てと懇願する声は、重なりすぎて、ただの雑音にしか聞こえない。アスファルトの上で踊る陽炎は、どれだけ近づいても、決して捕まえることはできなかった。  右の斜面に沿って、横に並んで停められている車たちは、太陽の光を跳ね返して、眩しいというのに、ひっそりとした姿をしている。サンダルの中に砂の粒が入ってきて、遊んでいた。 「大丈夫ですか?」  歩道の内側に並んで歩く灯は、明らかに口数が少なくなっていて、代わりに呼吸をする回数を増やしている。東京で、文章を書いて生活している彼女は、あまり運動が得意ではなく、体力もない。言葉ではなく、返してくれた笑顔を、汗がなぞっていた。  続いていた駐車場が途切れると、右に急な坂道が現れる。目的の場所はこの上だ。踵の高いサンダルを履いている彼女が足をくじかないか横目で見る。斜めになったサンダルに包まれた足の爪は、白色が混ざった黄緑色に染められていた。喫茶店で、バニラアイスが乗ったメロンソーダを子どもがよく注文するのだが、時間がたって、アイスとソーダが混ざったときに、こんな色をしていたのを思い出す。彼女の小さな爪に収まったその色は、セミの声でうんざりしていた僕に、炭酸の弾ける音を聞かせてくれた。  立ちどまると、もう歩きだせなさそうにないので、足を止めない。しばらく登って、また右に曲がると、道の右側にお地蔵さんが並んでいた。小さな小屋の中で、微笑んで手を合わせている。 「先に行っててください。水を汲んできます」  小さな駐車場を抜けると、目の前には墓地が広がっていた。山の形に合わせて作られているので、奥には階段を登った上にも墓がある。 「お願い」  墓地の中に入っていく灯の黒い姿を横目に、水道の蛇口をひねる。僕の膝上まである柱に蛇口はあって、その下に置かれた水桶と柄杓はお寺さんの物で、自由に借りていい。だんだんと近づいてくる水面を待ちながら、脇に生えた彼岸花を視界の真ん中に持ってくる。黄緑色の体は風に引っ張られ、赤色の頭はそれについていった。  いい具合に水が溜まり、蛇口を、さっきとは反対にひねる。水桶を持った右側に体を傾けながら、墓地に入るために、3段の石階段を登った。2列先の墓の並びのところで右に入り、その奥で灯はただ立っている。そこで、僕は歩けなくなってしまった。  生い茂る木々を背景に、コンクリートで作られた場所の上で、彼女は立っている。くっきりと境目が分かるほど、彼女の黒いワンピースはよく見えるのに、ふくらはぎの真ん中から、つま先まであらわになっている白い肌は、灰色のコンクリートと溶け合ってしまいそうだ。黒色のリボンと、茶色のコルク素材で作られたようなサンダルは、そこに取り残されているのかと錯覚してしまうほど浮いている。 「帰って!」  幽霊のように何もせず、ただそこに立っている灯に見とれていた僕の不注意のせいで、彼女に近づけたくないものに気づかなかった。全身を縮こまらせた彼女の視線を追って、後ろを向くと、そこには初老の男女が立っている。女性は涙に瞳を潤ませ、男性は女性を支えるように肩を抱いていた。  幸大の両親だ。 「なんでアンタがここにいるのよ! 幸大に近づかないで!」  セミの大合唱を後押しに、幸大の母親は金切り声を上げる。この世で一番、不快な音だ。灯がすっかり怯えてしまっているではないか。 「アンタの、アンタのせいで幸大は……」 「落ち着きなさい」  幸大の父親になだめられている幸大の母親は、飢えた獣のようだ。 目をむき出して、灯を睨んでいる。それを遮るように、間に立っているのに、僕のことを通り過ぎて、彼女のことだけを必死に見ていた。 「灯さんはあの日、幸大と喧嘩をして、アパートを出て帰らなかっただけです。彼女は何も悪くない」  幸大が亡くなった夜、灯と彼は大喧嘩をして、彼女は同棲していたアパートを飛び出した。そして夜が明けた次の日、彼女が謝ろうとアパートに帰ると、彼は死んでいたのだ。心筋梗塞だろうと言われているが、解剖なんてしていないし、本当のことは分からずじまいである。 「もちろん分かっているんだよ、優也君」  静かな目をこちらに向けてきた幸大の父親は、一つ咳をした。 「分かっているが、受け止めきれないんだ。幸大を失った悲しみは、私たちにとって、余りにも大きすぎて、外に向けないと壊れてしまいそうなんだよ」  灯を睨むのをやめ、泣きだした幸大の母親を、幸大の父親は胸に抱き留めて、背中を撫でていた。くっついて、一つになった渋い色の塊は、もう僕たちのことを見ていない。それなのに彼らは、彼らだけの悲しみに浸り、それをこちらに見せつけているのだ。 「お水、ごめんね」 「あか……」  セミの鳴き声の間を縫うように、灯のか細い声がしたかと思ったら、横を黒い波がすり抜けていった。幸大の両親の前まで近づいた彼女は、深く頭を下げて、足早に階段を降りる。黒いワンピースに隠れて、彼岸花が一瞬だけ見えなくなった。  その後を追うために、水桶を持って走る。水桶に入った柄杓が、揺れる円形の世界の中で、体をぶつけていた。幸大の両親には一応軽く会釈をし、階段を飛び降りると、水桶を傾ける。排水溝に向かって傾けたつもりだったが、勢いがつきすぎたのか、水場の枠を出て、彼岸花にかけてしまった。風よりも強い衝撃に、彼岸花はその赤い頭を地面に打ち付けそうになっていた。
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