メロンソーダが弾けた

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 (あかり)さんと僕は愛し合ってる。それは本当だと、うぬぼれてもいいはずだ。でも、彼女に一番に愛されているのは僕じゃないのも本当で。君が日常の中で、彼の面影を追う度に懐かしんで、そのことを僕に申し訳なく思って無理に笑うのが、ひどく苦痛だ。 「灯さん」 「なあに、優也(ゆうや)」  ソファに座って、パソコンに文字を打ち込む灯を、隣から呼ぶ。こちらを向いてはくれないが、集中している顔を見るのは好きだった。それに、無意識に返事をしたときに、彼女は少し言葉を伸ばす。「な」の後ろに続く「あ」が少し現れて、「に」が続くのだ。いつも歯切れよく話す彼女からこぼれる、波のような言葉に愛しさを感じる。 「終わりそうですか?」 「もうちょっと」  ほんの少しだけ、彼女の方に近寄った。握りこぶし一個分の距離に、顔が熱くなる。僕がこの距離まで近づくのに、ソファの端から三回ほど移動している。一回近づくごとに勇気を振り絞っているので、心拍を上げすぎた心臓が痛い。 「あ」 「いい子に待ってて」  彼女は、僕の太ももを優しく、左手で二回叩いた。そのまま太ももに手を置いたままなので、ジーンズ越しに温かな体温を感じる。それだけで、僕は一日機嫌よくいられる自信があるし、年下の彼女に子ども扱いされるのは、なんだかこそばゆくて好きだ。でも、名前くらい呼ばせてほしい。  両腕を上げて、凝り固まった筋肉を伸ばす彼女をじっと見る。色素が薄いらしく、少し茶色がかっている髪の束が、肩から滑り落ちた。ヘアゴムを細い人差し指で引っ張って、肩の下で毛先を遊ばせている姿が、窓から入る夕日の中で浮かんでいる。画面に並ぶ文字の列を追っていた瞳が、こちらを見てくれた。 「見すぎだよ」 「ごめんなさい」  目が合って。見開かれて、笑った瞳がこちらに近づいてくる。少し下がりながらの瞳との距離がなくなると、彼女は僕の首筋に顔をうずめた。肩甲骨の辺りで、Tシャツを掴んでくる指に、動きが止まってしまう。肌にかかる息に、悲鳴を上げそうになった。驚いて、上げてしまった手をどうしたらいいか分からない。 「手、抱きしめてほしい」  鎖骨にかかるお願いに、うまく返事を返せない。口の中がカラカラで、上唇と下唇がささくれだっている。あばら骨の横を通り抜けながら腰に手を回すと、彼女との距離が一気に近づく。柔らかな肌が、腕同士で触れ合って、吸い付いてきた。髪からは、自分と同じシャンプーの匂いがして、思わず抱きしめる力を強くしてしまう。 「いつも、これくらい強くていいのに」 「そんなことしたら、壊れちゃいそうで怖いです」  ぎこちなく彼女の髪を撫でると、おかしそうに笑われた。馬鹿なことを言っている自覚はあるが、それくらい彼女が愛おしくて、大事だ。傷つけたくないし、僕のことを一番に思ってほしい。  でも、僕は絶対に一番にはなれないのだ。 「コーヒー飲みたいな」 「……分かりました」  僕を見上げる瞳に笑い返すと、ソファから立ち上がった。彼女からの視線を背に感じながら、お湯を沸かす。下の階にある喫茶店で働いているので、コーヒーを淹れるのは得意だ。  彼女の鼻歌を聴かせてもらいながら、コーヒーをコーヒーカップに注ぐと、香ばしい香りがより広がる。おぼんに、二人分のコーヒーと、貰い物のマドレーヌを乗せると、彼女の元に戻った。机に置かれた彼女のパソコンの横におぼんを置くと、彼女の人差し指が、コーヒーカップの持ち手に絡みつくのを眺める。もう片方の手で支えるように持たれたそれは、彼女の視線を一身に浴びた。黒に近い茶色の水面に、伏せられた瞳が写り、吹かれる息は、コーヒーを冷ますためのものか、ため息なのか分かりそうもない。 「このマドレーヌ、新作らしいですよ」  コーヒーから、彼女の視線を引きはがしたくて、個包装されたマドレーヌを差し出した。眉根を下げて、笑って受け取った彼女は、コーヒーを置き、袋を開け始めてくれる。一口食べると、口元を手で隠しながら咀嚼していた。 「どうですか?」 「美味しいよ。これ、なんか入ってるね」 「オレンジの皮がアクセントに入っているみたいです。食べられるみたいで良かった」  さわやかな香りのするマドレーヌを口いっぱいに頬張る彼女は、ほんのりと頬が赤くなっている気がする。喜んでもらえてよかったけれど、視線が時折、コーヒーに注がれるのを、僕は気づいてしまった。  自分の手に持ったコーヒーを見つめる。揺れる黒い鏡に映るのは、前髪が長く伸びた僕の顔だ。この顔がもっとかっこよくて、明るくて、親しみやすかったら、彼女が一番愛している人に近づけたのだろうか。いや、遠く及ばない。  灯がこの世で一番愛していた人は、もうここにはいない。その人は幸大(こうた)という名前で、彼女が付き合っていた人だ。僕の高校の後輩で、なんでもできる好青年だったのを覚えている。  彼はコーヒーが好きで、いつもコーヒーの香りをほのかにさせていた。彼の恋人だったのだから、その匂いを、灯はもっと濃く感じていたのだろう。彼女は、コーヒーを見たり、その香りを嗅ぐたびに、明らかに幸大のことを思い出していた。そして、ふと気づいて、僕に無理やり作った笑顔を見せるのだ。 「優也は食べないの? 美味しいよ、マドレーヌ」 「いただきます」  マドレーヌを渡してきた灯は、コーヒーに口をつけた。コーヒーを美味しく淹れることぐらいしか取り柄がないというのに、そのコーヒーが憎らしい。彼女がコーヒーを飲むたびに、幸大と口づけをしているように思えてしまう。 「いつも、優也の淹れてくれるコーヒーは美味しいね」 「ありがとうございます。灯さん」  マドレーヌのオレンジの皮が、やけに苦く感じた。
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