十倍の時の中で

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 上戸大学の第三講義室では、一種異様な雰囲気というか、言葉の竜巻が吹き荒れていた。  講義が暴走するのは毎度のことで、抗(こう)老化医(ろうかい)学(がく)科の受講者はだれも戸惑うことはなかったものの、時には還暦過ぎた老人の夢想が、若さを圧倒することがある。  ただ、学生たちは講義に耳を傾けていた。  ちなみに抗老化医学とはアンチエイジング、つまるところ老化を遅らせる研究だが、これはなにも夢物語ではなく、現代の医学の最重要課題として、世界のトップレベルの研究者が鎬を削る分野だ。  先崎教授は銀髪の髪を振り乱して、このような持論を展開した。  「これからの時代は宇宙開発が最重要課題となるだろう。しかるに人間の寿命は短い。平均寿命はたったの八十歳、どんなに頑張っても百歳が限度だ。これではテラフォーミングさえ完成できない。惑星移住など夢のまた夢だ。生涯、いつ完成するかわからない努力を続けて、次の世代、また次の世代と、事業をバトンタッチしていくんだが、断言してもいい、人間の精神はそんなに強靭じゃない。途中で挫折するね。つまり次の世紀に生きる人間は無意味なゴーストタウンをあちこちの星々に築き上げて終わるんだ」  研究室の休憩時間に、この六十四歳の老人の妄想というか、未来予想を聞いて、その頃、学生だった中宮(なかみや)博(ひろし)は(なんちゅう、殺伐とした未来予想すんだよ、このじっちゃん)と、内心、辟易したもんだ。  そんな気持ちを知ってか知らずか、先崎は白髪をモジャモジャと搔きながら叫んだ。  「諸君! そんな真っ黒な未来をだれが望む。われわれは人類を救済すべく、この研究を断固たる使命感を持って完成させねばならない!」  あれからどれほど月日が流れたろう。  と、博は懐かしく思う。  あれから研究は進み、寿命は十倍にまで伸ばすことが可能になった。  人類は皆、二十歳になると、アンチエイジング効果を高める薬品、《ニッキ・フル》を静脈注射し、老化を遅らせるのが常識となっており、今では成人式に打つのが恒例の行事だ。  博の世代は、その第一世代で、今年の七月くれば彼の年齢は四百二十歳にもなる。  まだまだ働き盛り、家族のために頑張らねばならない。  しかし、人類は最近、ある弊害に悩みつつあった。  それは海馬で記憶できる範囲には限りがあるということだ。  だいたい人間、十日前でも記憶があやふやになってくる。  だれが百年、二百年前のことなど覚えていられるだろうか? これは夫婦生活においても深刻な問題になった。  既婚者なら身に覚えがあるだろう。  カミさんから「ねえ、おぼえてる?」と、言われてドキリとしたことはないだろうか? たぶん一度や二度ではないはずだ。  これが仕事での顧客ならシャレにならないし、上司だったら危機一髪の窮地に立たされるかもしれない。  そこで新しいタイプの技術開発が必要になってくる。  その開発研究者が博なのだ。  博が生み出した装置はヘッドホン型で、人間が体験した事柄をテレビカメラで記録して、あとでバーチャル体験できる。  名付けて《ネオ・フォルダー》だ。  この装置の基本的な記憶容量は十年間、起きたら、すぐ頭に装着することで物忘れの心配から解放される。  内蔵されたチップを定期的に取り出し、契約した会社のメインコンピュータにアクセスしてデーターを記録させれば、ほぼ一生分の記録を残すことだって可能だ。  これぞ人類の新たなフォルダ、記憶データーバンクの開設だ。  さらに契約金をアップしてバージョンアップすれば百年、五百年と記憶容量を増やすことができ、さらに便利なサービスが受けられる。  もう、コインの時代ではなく、生活必需品となったメモリーを獲得することが 新しいステータスになっている。  買い物の代償として空き容量を譲れば、販売者はそれをネットで売って、電子マネーに交換だ。  博が勤める仕事はその仲立ちをするアプリの運営だ。  「気が付けば企業の創設者か」  と、高層ビルの最上階で街を見下ろす博だったが、達成感や満足感はなかった。どこまで行っても道半ばだ。  「寿命はあと四百年くらいか……。それくらい年月が流れれば、この会社だってどうなるかわからない。どんなに変化を拒んでも世の中は進歩して、この栄光も夢幻だ」  そう、この時代の人々は幸福感をあまり感じることがなく、(せつな)的になっている。  一般人にしても、元気で働ける時間が増えれば、それはそれで幸せだが、しかし老人になってからが辛い。
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