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しばらくそうしていると、楓は少しずつ落ち着いてきて。
震えが止まると、そっと俺の腕を抜け出した。
「…ごめん…取り乱して…」
「気にしないでいい。我慢とか、しなくていいから。もう少し抱き締めていようか?」
「ううん、もう大丈夫。和哉も…ごめん」
まだ青白い顔に、無理やり作った笑顔を張り付けて。
それを和哉の方にも向ける。
「いえ。…今日の契約は延期にしましょうか。特に急ぐ必要もないですし。楓の体調の良い時に仕切り直しましょう」
和哉は、彼にしてはとんでもなく柔らかい声と表情でそう言ったけど。
「いや、今日でいい。蓮くんも和哉も、貴重な時間を割いてくれてるんだもん。俺の為に仕事滞らせるわけにはいかないでしょ」
楓は、さっきまでの儚い姿とは打って変わって、しゃんと背筋を伸ばし、凛とした佇まいでまっすぐに和哉を見つめた。
その変化に、和哉は微かに目を見張って。
それからなぜか、唇の端に微笑みを乗せる。
「あなたって、昔からそうですよね」
「え?」
「いつもぽやーんとしてて頼りなさげに見えるのに、時々意外にしっかりしたこと言うじゃないですか。本当、俺には理解不能です」
「ぽやーんって…それ、よく言われたなぁ、昔」
「昔?今は違うんですか?」
「今は…もうちょっとしっかりした…はず」
楓が最後は自信なさげな小さな声になったのに、笑みを深めて。
「では。契約にしましょうか」
俺たちの向かい側に、腰を下ろした。
「…蓮さん」
そうして、今度は眉を寄せて俺を見る。
「なんだ?」
「なんで、そっち側なんですか?」
「今日の俺は、ヒメの付き添いだ」
「…そうですか。わかりました」
ちょっと…いや、だいぶ呆れがちな溜め息を吐いて。
手に持っていたバインダーを開き、楓の前に差し出した。
「こちらが契約書です。読んでいただいて、これでよろしければ最後のページにサインをお願いします」
それを受け取った楓は、パラパラと数枚の紙を捲って。
助けを求めるような視線を、俺に向ける。
「どこ見ればいいの?」
「どこって…全部読むだろ。契約書、交わしたことないの?」
「ないよ、そんなの」
「え?勤めてた店は?契約書とか、なかったのか?」
「ないよ。そもそも、あの店は俺と那智さんで始めたものだし」
「春海のとこは?」
「わかんない。全部春くんに任せてたもん」
「…そうか。じゃあ、今回はちゃんと読んで。自分自身のことだろ。納得いかないところは、ちゃんと交渉しないと駄目だ」
「こんな難しいの、俺の頭じゃ読んでもわかんないよ」
「いや…でも、大事なことだからさ…」
「この契約書って、蓮くんはもう確認してるんでしょ?だったら、俺はそれでいいもん。蓮くんが、俺に不利なことするはずないでしょ?」
「それはそうだけど…」
「あの…」
俺たちの会話を、和哉が顰めっ面で遮った。
「イチャイチャするんなら、俺のいないところでやっていただけます?」
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