電話が苦手な大学院中退

1/1
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「あんた、これからどうするの」 「どうするったって……。まあ一応、塾講師に応募したよ」 「それ、正職じゃないんでしょ? 大丈夫なの」 「そんなことは知らないよ。とりあえず家でゴロゴロしてるよりはいいだろ」  そう言うと立花悟は強引に母親を自室から追い出した。そしてもう何日前に天日干ししたかもわからない引きっぱなしの布団に突っ伏して、はあーと大きなため息をついた。  こんな日がもう、彼が大学院をやめてから1週間も続いている。別に学業不振でやめたわけではない。入学した段階で受けていた授業料全額免除の権利が、今年度は取れなかったのだ。成績はそんなに悪くはなかったが、ずば抜けて良かったわけでもないので、取れたのは授業料が3分の1減額されるだけの権利だった。一年でおよそ120万円もかかる学費の3分の1なんて、高が知れている。収入のない悟には到底払える金額ではなく、両親にもそんな金銭的余裕があるわけでもないので、退学という選択をしたのだった。元々就職から逃れるために入った大学院なので、やめたことに特に後悔とか未練はない。今彼を苦しめているのは、「これからどうするのか」という将来についての問題なのだった。  もちろん、就労意欲の薄弱な悟にしたって、どうせ就職するなら正社員がいいんだろうな、とは思っている。ただいきなり正社員となると、いくら大学卒という学歴はあっても、今まで何の就労経験もない彼には、とてもじゃないが荷が重く感じられた。そこでまずは、比較的社会的責任の軽いアルバイトから始めて、働くことに慣れてきたら派遣社員に移って短期間就労し、それをしっかりこなすことができたら、いよいよゴールの正社員という道のりを思い描いたのだった。その第一歩として選んだのが、塾講師のバイト、というわけなのである。中退したとはいえ、一応大学院まで行ったのだという自負と、こと勉強のことに関しては、友人に教えられるよりもむしろ教えることの方が多かったという学生時代の懐かしき記憶が、そのモチベーションとなったのだ。それで早速求人サイトから、家から一番近い個別指導塾を探して、応募したのである(集団を相手にするほどの気力はなかった)。  しかしそれからもう5日。いつの間にか、目が覚めたらすぐスマホのメールボックスを確認することが、彼の習慣となっていた。ところが毎朝来ているのは、どうでもいいスパムメールや、登録した求人サイトからのおすすめ情報ばかりで、悟はその度に強い焦りを感じるのだった。 「もう俺は23…‥。今年で24だというのに」  このようにときたま不安になってくると、彼は決まって、自動配信された応募完了メールを確認する。本当にちゃんと送れていることを確認することで、少しでも気を落ち着けるためだ。そこで毎回目にする文面の中に、こういうのがある。 〝応募された企業からしばらく経過しても連絡がない場合は、企業へ直接お問い合わせください〟 「電話……すれば、いいのか」  そこで彼の行動は止まる。はやる気持ちが一気に萎縮してしまう。電話は、どうしてもしたくないのだ。  まず用件をちゃんと言えるかが不安。どもったらどうしよう、噛んでしまったらどうしよう、言いたいことを正確に伝えられなかったらどうしよう、急に頭が真っ白になって、言葉が出てこなくなったらどうしよう……。 考えれば考えるほど、心臓の鼓動が速くなる。しかも、電話は声だけでコミュケーションをしなければならない。身振り手振りが使えない。悟はよく、人と話す時には、ジェスチャーを使う。足りない言葉を補ってくれるからだ。舌足らずな自分にとって、人と円滑に意思疎通するには、ジェスチャーが欠かせない。ただ、電話では完全にこれが封じられてしまう。言葉に詰まった時、頼りにできるものが何もない。 それに、声。彼は自分の、くぐもったような低い声に頗る自信がなく、変だとか気持ち悪いだとか思われていないかが気になって、自然と声が小さくなってしまうのだ。威風堂々と話せない。そんな弱気そうな人間を、果たして採用してくれるのか。 そして極めつけは、初対面の相手なのでついアガってしまって、思わず変声期みたいな不気味に高い変な声が出ないかも心配だ。以前道端で、知らない外国人に急に背後から英語で道を尋ねられ、驚いて咄嗟に出てしまったあのときの声だ。その声があまりにもおかしかったのか、話しかけてきた外国人の方が、「WOW‼」と叫んで後ずさりしていた。もしそんなだらしないことを電話越しにしてしまったら、不採用なのはもちろんのこと、相手の虫の居所が悪ければ、叱責されかねない。叱られるなんてそんな辱めに遭うのは、絶対に嫌だ……。  そんなことを考えているうちに、気がついたらスマホの電源を落としているのだ。もう何度そんなことを繰り返しているだろうか。今日もそうだった。  母に夕飯を呼ばれた。はいはい言いながら悟は一階へと降りて、父と母の待つ食卓へと座る。今日の夕飯は、チーズハンバーグとホタテ入り野菜サラダ、肉じゃが、昨日の残りのコロッケ、なめこの味噌汁、ちりめんじゃこ。どれも彼の好きな物ばかりだ。特にこの、母の作るハンバーグがとても美味しい。きのこが入った特製のデミグラスをかけると、まるでお店で出てきそうな一品になる。彼は、「いただきます」と小さく手を合わせて呟くと、夢中で箸を動かした。  ものの20分で、全て平らげた。食器類を台所へ持って行くと、そそくさと二階の自室へ戻って行った。大学院をやめるまでは、食べ終えてからしばらくは、リビングのこたつに入って家族と録りだめていたドラマを見たり、他愛のないおしゃべりをしたりして、いわば〝一家団欒〟のひとときを楽しく過ごしていたものだ。それが最近は、めっきり会話も減ってしまった。正直なところ、彼もあの〝楽しかった時間〟をもう一度送りたいという気持ちはあるにはあるのだが、どうしても就職のことに触れられるのが嫌で、自然一家の団欒を避けてしまうのだった。  ただ、今日は珍しいことに、父も母も食事中に就職のことを聞いてくることはなかった。毎日のように話に上がっていたのに、さすがに気をまわしてくれたのか何なのかはよくわからなかったが、おかげで悟の気はその夜はとても軽かった。スマホでの仕事探しも、いつにもまして捗り、いつもなら良さそうなところを見つけてもグダグダと何十分も悩んで応募するかどうか決めるのに、その日はバーンと気になったところ5軒に立て続けに応募ボタンを押した。塾はもちろん、できるだけチャンスを増やすため視野を広げて、近隣の飲食店にも手を伸ばしてみた。悟は全ての応募が完了したことを自動配信メールで確認すると、ふぅーと深く息を吐き、心地よい達成感が体の奥の方から湧き上がってくるのを感じた。 「さすがにここまですれば、どこからかは連絡がくるだろう」  ひと仕事終えた気分で、ザブーンと風呂に浸かり、その日は憂鬱に落ち込むことなく、布団を整えて、さっさと寝た。夢を見ることもない、久しぶりの深い眠りだった。  今朝は10時に起きた。悟にしてはずいぶん早い起床だった。いつもと違い、頭がスッキリしている。眠気はほとんどない。こんな清々しい朝は久しぶりだと、彼は思った。早速、昨日応募したところから何か連絡がきていないか確認しようとスマホを手に取ったが、気分が変わって、まずは朝食を食べてからにすることにした。よく考えれば、昨日の今日で、しかも朝方に連絡がくることなんて、よっぽどのところでもない限り、ありえないだろう。彼はゆっくり待つことにした。  一階へ降りると食卓には、焼き鮭とトマト、レタスに玉子焼きが一つの皿に乗っていて、きれいにラップされていた。彼の朝昼兼用ご飯は、近所のスーパーのパートに出かける前に、母がいつも作っておいてくれるのだ。彼は炊飯器から白ご飯をよそって、テーブルに着いた。時間がたっていて鮭は固いが、それでも味はしっかりしている。塩加減がちょうどいい。  10分くらいで完食して茶碗などを流し台へ持って行き、手を洗ってリビングのこたつに入った。美味いものを食べた直後に横になることほど、幸福なことはない。悟は、 「このまま、もうひと寝入りしようかな……」  と、そんなことを考えながら、うとうとしていると、まぶたが重くなってきた。何度か閉じてしまったまぶたをパチクリパチクリさせたが、やがてその重さに勝てなくなってきて、いつの間にか完全に閉まった。そして本日二回目の睡眠に入ろうとしている時に、ちょうど耳元に置いていたスマートフォンが鳴り出した。音量の調節ができておらず、耳元で爆音が流れたので、彼は思わず「わあ!」と叫んで跳び上がった。その音がスマホの音だと認識すると、 「誰だよこんな朝っぱらから……。もしかして母親か? また何か忘れ物届けろとかじゃないだろうなあ。母親の職場に顔出すの、正直なかなか恥ずかしいってのに……」  そしておそるおそる、スマホの着信画面を見ると、そこには、  ○△□×―△×―□●▲■  と表示されてあった。彼の知らない番号だ。しかも「○△□×」となっているから、携帯電話からではなく、固定電話からだ。これには悟も訝しがって、 「なんだこれは? 母親からでも父親からでもない。父親の会社からだとしても、確かこんな番号じゃなかったはず。ということは友達か? いや、それもない。俺の友達に、スマホを持ってないやつはいない。わざわざ固定電話からかけてくる理由はない。ということは誰から……」  そこまで思い浮かべて、悟はハッとした。昨日応募した企業からではないかと思い当たったのだ。Webで応募したのだから、てっきりメールで返ってくるものとばかり思っていた。そういえば、電話番号も入力してたっけ。まあ何がともあれ、だとしたら仕事を得るチャンスだ。早く出なければ! でも……。悟が一瞬、どうしようかと躊躇すると、次の瞬間、ブチッと着信音が切れた。 「しまった!」  と彼は頭を抱え込んだ。せっかくのチャンスをふいにしてしまった絶望感が彼を襲う。 「なんで出なかったんだ! 待ちに待った企業からの連絡じゃないか。この日のために俺は何日も苦しんで過ごしてきたっていうのに……。ああー、俺は大馬鹿者だ!」  冷静に考えれば、むこうからかかってきたのなら、かけ直せばいいのに、こっちからかけるのと、むこうからかかってくるのとは、小心者の悟にとっては、天と地ほどの差があるようだ。こっちからかける勇気はない。 「今日も、ダメだったか」  自分の情けなさにあきれ果て、意気消沈してこたつ布団に潜り込もうとした矢先、再びスマートフォンから爆音が流れた。今度は音量の大きさではなく、再びかかってきたことに悟は驚いた。スマホを手に持ち、音量を下げる。イヤホンをさす。あとは、スマホ画面の「応答」という部分を押すだけだ。しかし、指が、画面の上まできて、動かない。これを押せば相手とつながる。相手がこちらを認識する。もしそれで変なことをやらかしてしまったら、どうしよう。声が震えて、もし、「あの、聞き取りにくいのですが……」とか言われたら、どうしよう。あるいは、「すみません、もう少し高い声で話していただけますか?」とか言われたら……。でも、このままモタモタしていても、こんな生活から抜け出すことはできない。こんな、毎日特にやることもなく、ダラダラと求人サイト眺めているばかりの生活じゃ、両親にも悪いじゃないか。もう23にもなって、一銭も家に入れてあげられないなんて。周りを見ろ! 近所の伊藤くんは公務員として市役所で働いている。大学の友人の渡辺くんは、大手の銀行に行員として勤めている。長谷川くんだって、働いてはいないが、大学院生として立派に修士論文の執筆に勤しんでいるじゃないか。それに比べて、俺はなんだ! 電話一本取れないのか? このままじゃ本当に、エヌイーイーティー、「NEET」になっちまうぞ! それは御免だ。それが嫌ならこの電話に出ろ! この電話に出ることが、俺の就職活動の重大な第一歩になるかもしれない。職歴だって、たとえバイトでも、0か1かだったら、1がいいに決まってる。早くしないと、また切れちまう……。ふぅー。よし、出るぞ!  悟は自分を必死に鼓舞したが、スマホを持つ手は震えるばかりだ。どうしても、「応答」に指を合わせることができない。そこで悟はスマホをこたつテーブルに置いた。これでスマホの方は震えることはない。あとは自分の指だけだ。片方の手で片方の腕を押さえ、指の震えを最小限にして、なんとか画面の「応答」まで、指を滑らせることができた。指に力を込める。着信が通話に切り替わった。悟は一つ深呼吸をした。そして……、 「は、はい……。た、た、立花ですけど」  言えた! 少しどもってしまったけど、なんとか言えた! 声もいつもどおりだ。ちょっと震えてるかもしれないけど、これなら案外、いけるかもしれない! さあ、何でもきやがれ! 「立花さん? ……あのう、坂口さんのお電話番号では、ない?」 「は? ……はあ」 「坂口さんじゃ、ないんですか?」  …………。 「はい、違います」 「そうですかー。すみません、間違えました。切りますね」  ブチッ、ツーツーツーツー……。 「もう、嫌」  悟は使った食器の洗い物もせずに自室に引き戻った。そして、引きっぱなしでもう一週間も天日干しされていない布団に突っ伏して、そのまま魂が抜けたように深い眠りに落ちていった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!