忘れていいよ

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「ねえ、覚えてる?」  あなたは私に尋ねる。手には苺味のサイダーを持っている。 「これ好きだったよね」  好きじゃない。そもそもそれは新商品なので、私は飲んだことがない。ほら限定って、そこに書いてあるでしょう? 見えないの? 確かにそのサイダーのパイナップル味は好きだった。ネットでケースで頼んで、ひと夏の間、そればかり飲んでいた。私は苺は好きだけど苺味はそんなに好きじゃない。言ったこと、あるよね? あなたは「なにそれ」って笑ってた。私は覚えてる。忘れてない。なんにも忘れてない。あなたは忘れてしまったのかな。私、苺味は好きじゃないけど好きな苺味のチョコレートがひとつだけあった。ホワイトチョコと苺の酸味が合っていて、人工的な苺味じゃなくて美味しかった。付き合ったばかりのころコンビニに行くたびに買っていた。その二つが組み合わさって、あなたは苺味のサイダーが好きだと思い込んでいる。あなたはあまり好き嫌いがなくて、食べ物の種類にも頓着しないから、私のこれは好きだけど似たこれは好きじゃない、という細かい好みを覚えられないのかもしれない。 「そういえば、あそこの店がつぶれるよ。君が好きだったケーキ屋。モンブランが美味しいところ」  そのケーキ屋も、私は別に好きじゃなかった。嫌いってほどじゃないけど。その店のモンブランもあんまり好きじゃなかった。モンブランは好き。私はメレンゲ生地か、タルト生地のが好きなのにそこのはパイ生地だったから。それに私はその店より一駅前にあるタルトの専門店が好きだったんだけど、あなたはいつもその店でケーキを買った。「ここのモンブランあんまり好きじゃないんだって」って私が言っても、「忘れてた」とあなたは毎回笑っていた。あんまり好きじゃないケーキ二つを、二人で分け合って食べた。あの店のモンブランが好きだったのって、多分あなただったんでしょう。でも自分ひとりのために買うのはなんだか趣味に合わないから、私のためってつもりで買っていた。そういうの、別に、小さなことだけど、もう訂正できない。 「いろんなことが変わっていくよね。ほら、覚えてる? あの人も結婚して子供生まれるんだって。仲良かったよね」  よくないよ。悪くもないけどよくもない。あなたの友達が前にその人と付き合ってたからと近い業界にいたから会う機会はあったけれど、私たち二人の間には知人以上のなんの関係もなかった。私と仲のよかった人たちのことを、あなたはほとんど知らない。それは私があなたと違って自分の仲のいい人間を恋人に会わせる趣味がなかったからだ。あなたは私のことをよく知らない。知らないことも知らない。あなたの知っていることの中から私を作り上げて、時が経つと少しずつ、あなたの中で形も変わって、元の私から離れていく。  私とたいして親しくなかった人たちの近況を話し込んだあと、あなたは体から力が抜けたみたいに、地面にへたり込んだ。手からサイダーのペットボトルが落ちる。苺のサイダー。それを飲む私。存在しなかった私。どこにも存在しない私。これからも存在することがない私。あなたの中の私。忘れられていくこと。付け足されていくこと。あなたの中で私が変わる。 「会いたいよ」  あなたは泣いている。 「会いたい。君に触りたい。君の声が聞きたい。このままだと忘れてしまいそうだ」  忘れてしまいそう。でも、ねえ、本当に今も、覚えているのかな。あなたの中の私は、生きているときの私と、同じ声でしゃべってる? 私の匂いを覚えてる? 私がどんなふうにあなたに触れたか、本当に覚えてる? 「会いたい」  あなたが泣いたところなんて、私は見たことがなかった。生きている間は、見ることがなかったのに、あなたは泣いてばかりいる。あなたは泣きながら私を思い出している。私の姿はきっと、少し涙で歪んでいる。 「忘れたくない」  苺のサイダーが好きで、モンブランが好きで、あなたの知ってる人たちと仲良くて。そういう私。存在しなかった私。  ねえ、でも、忘れていいよ。元のまま、覚えていなくても、いいの。あなたの中の私。涙ごしに見る私。生きていたときよりもきっと、少し優しくて、気難しくない私。優しいあなたの中に、優しくなじんでいる私。  本当の私はもう、何にも変わらない。いつまでも同じまま。私はいつまでも覚えてる。もう忘れることもできない。 「会いたい」  少しずつ忘れて、少しずつ変わっていく。それで、もういいの。  変わっていくあなたの中で、私がまだ、息をしているってことだから。 「愛してる」  私も。もう伝えられないけど、愛してる。何もかもが変わってしまっても、きっとそれだけは変わらない。  だからそれだけ、覚えていて。
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