母の乳房

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小さな会館の壁が、ビリビリと振動するんじゃないかって言うぐらいに大きな声で読経が続いている。 いくら毎日お経を唱えているったって、あんな太い声は出るもんじゃない。 しかし、凡海上人が椅子に座ったその足が、ジュータンに届かず、宙ぶらりんになっているのを後ろから見ていたら、どうにも可笑しくなって、下を向いて笑いを堪えていた。 それにしても、死というものは突然やって来るとは知ってはいるものの、父の死亡の知らせを聞いた時は、足が震えた。 心筋梗塞だったのだが、長く闘病することもなく死んだのは、唯一の救いかもしれない。 もう少し、父親には楽しい思いをさせてあげたかった。 それは、タクミの心からの気持ちだ。 タクミの母親は、タクミを生んだときの医療事故で、出産後2日後に死んでしまったのである。 それ以来、父親は母親の分もタクミに世話を焼いてくれたのである。 まあ、実家に住んでいたので、実質は、おじいちゃんとおばあちゃんに育てられたようなものだけれど、母親がいないことでタクミが寂しい思いをしないようにということだけは、気にしていたのは、子供ながらも感じていた。 しかし、今、思い出してみると、父親は、苦労はしただろうけれども、それは自分の人生だったことには間違いがない。 自分で、選択した人生。 僕が生まれてからの50年は、間違いなく、父親は生きて、この世の楽しみも味わったのである。 それにくらべて、今思いだしても、母親の気持ちを考えると、息子のタクミでさえ、胸が締め付けられる思いがする。 タクミが生まれて2日後に死ななきゃいけなかった運命。 ただの1度さえ、自分のお乳をやることのできなかった無念。 そして、息子の成長を見ることのできない無念。 それに、まだこれからだという25歳で死ななきゃいけなかった、自分では、どうしようもない宿命。 静子という名前を付けて貰って生まれたきた母親の25年という短い時間は、果たして、自分が選択した人生と言えるだろうか。 そんなの決して言える訳がない。 しかし、これであの世で、父親と母親は、再会出来たのかもしれない。 あの世があるとするならばね。 そんなことを考えていた。 葬式の後、骨上げと初七日までして、それで実家に戻って来た。 仏壇の横に、遺影と遺骨を置いて、そして線香に火を点ける。 父親が嫌いだった線香の香りが遺影と遺骨の周りの空気に沁み込んでいく。 「線香臭いって、今頃、おやじ怒ってるかな。」 「あの世に行ったらね、ご飯食べられないでしょ。だから、線香の匂いがご馳走になるんだって。そんなこと、おばあちゃんが言ってたような気がするな。」と、マリコがタクミの背中越しに言った。 「そうなんだ。じゃ、今頃、美味そうな匂いだって喜んでるかもな。」 「きっと、そうよ。」 「それじゃ、マリコ。もう帰っていいよ。明日、仕事だろ。」 「タクミさん、ごめんなさい。本当なら、1週間ぐらい休んで、お手伝いしなきゃいけないのに。」 「そんなこといいよ。もう僕たちしかいないんだから、後は、ゆっくり手続して行けばいいさ。僕も、今日は、ここに泊まるけど、明日には、一旦帰るからさ。」 1人になったタクミは、近くのコンビニ弁当を肴に、缶ビールを飲みだした。 「おやじ、今まで、ありがとう。」 遺影の顔が、やや照れくさそうに笑ったかと思ったら、何か言ったような表情に変わった。 「だから、線香臭いの嫌いだって知ってるだろ。」 そう、怒ったように言った気がした。 「そっちじゃ、線香の香りは、ご馳走らしいじゃないか。」 「アホ言うな。こっちでも、線香は臭いんや。」 そんな会話を、タクミは妄想で楽しんでいた。 「ああ、こんな会話、生きている時にもっとしておけば良かったな。」 そう呟いたら、父親が亡くなった寂しさが、じわりと沸き起こってくる。 しかし、妙である。 気配を感じるのだ。 部屋の隅から気配を感じるのである。 とはいうものの、誰もいない。 気になりながら、ビールの500mlを3本ほど開けた時に、その気配のするところに、やっぱり誰かいるような気がした。 じっと目を凝らして見ると、女の人が座っているじゃないか。 タクミは、ビックリして仰け反ったが、ビールの酔いも手伝ってか、ビックリしながらも、冷静に、それを見ているタクミがいたのである。 誰だろう。 年齢で言うと、25才ぐらいだろうか、ストレートの髪を後ろで結んでいる。 浴衣を着ているのだろうか。 やや痩せ気味の華奢な身体は、如何にも、頼りなげで、寂しそうに、ただ座っているのだ。 いや、浴衣じゃなくて、或いは、病院のお仕着せの寝間着なのかもしれない。 確かに、そこにいるのだ。 とはいうものの、実体がある訳じゃない。 と言っても、実体がないと解っていても、そこに肉体が、存在しているように見えるのだ。 「誰ですか。」 タクミは、勇気を振り絞って言った。 「タクミ。あたしよ。あなたのお母さんよ。」 そう答えた女性の表情は、愛おしい我が子をみる目である。 そういえば、母の静子が死んだのは、僕が生まれた時だから、当時25歳だったはずだ。 死んだら年を取らないという理屈で考えるなら、目の前にいる若い女性が母親であっても不思議じゃない。 「あなた、本当に、僕の母親なの?」 「子供のころ、ずっとお乳をあげてたでしょ。」 いや、タクミが生まれて2日後に死んだ母親に、お乳を飲ませてもらえるはずはない。 そんなことを冷静に考えるうちに、ある記憶が、朧げに蘇ってきた。 そういえば、誰かにお乳を飲ませてもらっていた。 しかし、哺乳瓶のミルクじゃない。 近所のお乳の出る女性のものでもない。 そうだ。 確かに、僕は母親にお乳を飲ませてもらっていた。 そうタクミは、昔の記憶を、大切な人に貰ったけど、忘れてしまっていたプレゼントの包み紙を開いていくように、少しずつ思いだそうとしていた。 その当時、夜になると、タクミが、ケラケラと笑う声を、祖父母も聞くことがあって、気持ち悪かったということを聞いたことがある。 ひょっとすると、その時、母親が訪ねて来てたのかもしれない。 いや、そうに違いない。 そういえば、小学校の1年生ぐらいまで、母親のお乳を飲んでいた記憶がある。 毎晩、僕のところに訪ねてきては、乳を飲ませていた気がするのである。 もちろん、その時には、母親は死んでいるので、実在はしていない。 不思議な話だが、幽霊になった母親ということかもしれないのである。 いや、そもそも、今の状況は、現実なのだろうか。 人の思考は、脳で行われると信じていた。 でも、目の前の母親には、もう脳は存在しない。 それなのに、会話が出来ているというのは、人間の思考は、或いは、脳以外で行われていることなのだろうか。 じゃ、どこなのか。 心臓が思考するという話も聞いたことがあるぞ。 、、、そんな事を、考えていた。 しかし、小学校に入って、暫くしたら、お乳も飲まなくなった。 まあ、小学生まで、母親のお乳を飲んでること自体が変な話だが。 或いは、意識が友達に向かったのだろうか。 そういえば、高校時代に見た記憶も蘇ってきたけれども、その時は、その事実を無理やり封印したのかもしれない。 これは事実じゃないと。 幽霊なんて、存在しないのだと。 それにしても、考えてみると憐れな話じゃないか。 自分の子供に乳を飲ませることも叶わず死んでしまった未練を捨てきれずに、幽霊になってまで、息子に乳をやりたいと思って、この世に現れる。 その気持ちは、察するに易い。 しかし、母親と言っても、目の前にいる母親は、25才の女性である。 母親と言う気はしない。 「ほら、お乳飲みなさい。」 母親が、優しい目でタクミに言った。 「いや、もう僕は大人になったから、お乳は飲まないよ。」 いや、そんなことを返事するのは、この状況を受け入れいてしまっているのか。 すると母親は、焦ったような、真剣な表情になって、「何言ってるのよ。ほら、飲みなさい。お乳飲まないと、大きくなれないのよ。」と、憑りつかれたような目でタクミに訴えかける。 その目を見たら、タクミは、ゾクリとした。 普通の目じゃない。 両目を開いて、瞬きもせず、じっとタクミを見つめている。 その時、初めて、タクミは、この世の外にある世界に、足を踏み入れいてることを感じて、心底、怖ろしく思った。 「僕はもう、大人だよ。年も50才も過ぎた、ほらオッチャンだよ。」 「何言ってるんでちゅか。ほうら、お乳、美味しいよー。お乳、うまうま。」 その赤ちゃん言葉が、妙に気味が悪い。 まったく変わってしまったタクミのことを、子供のままのタクミで時間が止まっているように、可愛い息子として母親には見えているのだろう。 母親の静子には、タクミが子供に見えているのだ。 生きている間に、乳をやれなかった小さな子供に。 タクミは、迷った。 目の前にいる若い母親は、息子への未練で成仏できずに、この世に留まっている。 ここで、乳を飲んでやることで、或いは、成仏への道に繋がるのかもしれない。 母親が、それで安心するなら、それで、気持ちが安らぐなら、乳を吸ってやるべきなのじゃないだろうか。 母親を救ってやりたかった。 タクミは、母親の前に、にじり寄って、座り直した。 そして、そっと、目の前にいる若い女の寝間着の襟元を押し広げて、女の乳房を出した。 女は、優しい目でタクミを見ている。 女の首から肩に掛けての滑らかな曲線。 そして、柔らかな白い乳房。 実体は存在しないと理解できていても、そこに確かに女の身体が存在するのを感じていた。 そっと、両手で乳房に触れてみる。 滑らかな肌が、しっとりと手に纏わりつくようだ。 しかも、しっかりとした重みと、温かさまで感じるではないか。 タクミは、その重みと温かさに、気分が高揚してくるのを、タクミ自身覚えていた。 こんなにきめの細やかな肌は見たことが無い。 透き通るような白い肌を、タクミは、無意識のうちに掌で楽しんでいた。 そして、若い女の心臓に近い方の乳房を、そっと口に含んだ。 同時に、もう一方の柔らかい乳房が、タクミの頬を撫でる。 今、確かに、タクミの口には、若い女の乳首がくわえられている。 そっと、舌の上で乳首の感触を探ってみる。 ああ、これが母親の乳首だったのか。 そして、タクミは、そっと吸ってみた。 すると、タクミの頭の上で、「あ、ああっ。」という女の色っぽい声が漏れるのを聞いた。 タクミは、ハッと我に返って、乳房を離して、女を見たら、もうそこには母親はいなかったのである。 あの母親の色っぽい声は、ひょっとして僕を50才の男性とみて漏らした声だったのだろうか。 いや、それを考えることは、やってはいけない。 母親にとっても、僕にとっても。 そうタクミは、自分自身に、言い聞かせた。 今起きたことは、現実だったのだろうか。 タクミは、手のひらを見つめたが、やっぱり、まだ重みと温もりのイメージが残っている。 いや、確かに現実だった。 しかし、考えてみると母親も、憐れである。 もう、母親が亡くなって、50年以上経っているのである。 その間、ずっと母親の霊は、この世に留まって、我が子に乳をやることを夢見ているのである。 タクミが結婚をして、実家を出てからも、ずっと、夜の闇の片隅で、息子のタクミに乳をやる時を待ちながら、ひっそりと、部屋の片隅に座っていたのだ。 50年という長い時間を、ずっと座って待っていた。 それだけでも、相当な苦しみと悲しみに違いない。 そんなことを考えながら一夜を過ごして、実家を後にして、自宅に帰った。 しかし、それ以来、あるイメージが、タクミに憑りついて消えない。 タクミも死んで、マリコも死んで、もう母親を知るものが、誰一人として、この世にいなくなった時に、まだ、母親は、あの実家の部屋の隅で、タクミを待っているのではないだろうかという不安なイメージだ。 そして、あの実家すらも無くなって、ただの何もない土地になってもなを、ただ、母親だけが、そこに座っている。 何故か、地面のゴツゴツとした石の感触まで感じられた。 そんなイメージが頭から離れない。 このままじゃ、ダメだ。 そう思った、タクミは、凡海上人に連絡を入れた。 母親を成仏させるためである。 数日後、タクミと凡海上人は、実家の部屋にいた。 「うん。見える。見えるぞ。このご婦人が、お前の母親なんだな。」 「凡海さんにも見えるんですか。」 「ああ、見える。しかし、美人じゃな。しかも、うん、亡くなったのは25才と言ってたな。うん、中々。」 「いや、中々って、何ですか。」 「いや、タクミ君。お前の母親を、この凡海に、ちょっと預けんか。いやあ、実に、わしの好みのタイプなんじゃ。うひひ。ほら、美人やし。ほら、この華奢な感じも、わしの好みにピッタンコなんや。わかるか、ピッタンコなんや。」 その上人様の下品な笑い顔を見たら、気持ち悪いこと極まりないのだけれど、この状況では、上人様にお願いするしか方法がない。 「いや、そんなことより、僕は、母親を成仏させてあげたいんです。」 「ああ、解っとる。心配するな、いずれ成仏はさせる。それは、約束するがな。でも、言ったやろ、わしの好みにピッタンコやて。な、ピッタンコなんや。それに、わしも嫁さんが死んで、ちょうど話し相手が欲しかったとこなんや。そやから、ちょっとだけ、ちょっとだけ、茶のみ友達になってもろうて、それから、成仏させるから、それでエエやろ。実のところ、わしも寂しいねん。」 「いやあ、困ったな。でも、本当に、成仏させてくれるんなら、まあ、凡海さんに、任せますわ。でも、本当に、成仏させてくださいね。そこだけは、お願いします。」 「ああ、解った。おおきにな、ホンマ、おおきに。何しろ、ピッタンコやさかいな。」 そう言ったら、「ジャク、ウンバンコク。」と真言を唱えたかと思うと、何やら紐で母親を縛るような素振りをして、引き寄せたら、母親の姿は消えていた。 そして、凡海上人は、満面の笑みで帰って行った。 しかし、あれで良かったのだろうか。 まあ、成仏させてくれると言う言葉を信じるしかない。 日常の生活に戻ったタクミのもとに、3ヶ月後、凡海上人様が死んだという知らせが入ってきた。 気になって、お寺に駆けつけると、息子の愚海さんが、応対してくれた。 なんでも、死ぬ間際に、両手でおっぱいを飲む仕草をして、「ばぶー。」と満面の笑みで、赤ちゃん言葉を叫んだそうだ。 叫んですぐに息を引き取ったと。 茶のみ友達が欲しいと言っていたが、或いは、上人さまも、母親の白い乳房の魅力に憑りつかれてしまったのかもしれないと思った。 凡海上人が、嬉しそうに母親の乳を吸っているイメージが浮かんできたが、必死で、そのイメージを消し去った。 「ああ、気持ちが悪い。」 しかし、凡海上人さんは、本当に母親を成仏させてくれたのだろうか。 どうも、そんな気がしないのである。 母親を成仏させるつもりで、お寺に連れ帰ったけれども、上人自信が、まさしく母親に成仏させられてしまった。 そんなところだろうか。 ただ、それを想像したら、可笑しくなって、愚海上人の居る前にもかかわらず、笑ってしまった。 とはいうものの、母親も、凡海上人も、揃って、あの世にいるのなら、タクミが部屋で見た母親の悲壮なイメージも、なんだか、楽しいイメージに変化してしまったような気がした。 帰りに、実家によって、母親の座っていた部屋の隅に目を凝らしてみる。 いくら、目に力を入れて見てみても、そこに母親はいなかった。 或いは、本当に成仏してくれたのかもしれない。 ただ、その部屋に立ちながら、白い乳房の重さと温かさの記憶を感じていた。
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