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「ねえ、青井くん」
「はい」
「今夜、お食事でもどう?」
私が青井を誘ったのは、当然のことにも思えたし、出来心にも思えた。
「僕とですか」
「今日は予定があるのかしら」
「いえ、大丈夫ですが。奥様と食事なんて、初めてですね」
「もちろん私が奢るわよ。好きなレストランがあるの。そこに行きましょう」
神楽坂の駅から三分ほど歩いて小さな路地を入っていくと、ひっそりと目立たないレストランがある。おそらく、フランス料理だ。料理に興味のない私にはどうでもよかったが、味がいいので気に入って、友人との食事会によく訪れていた。
地味な鉄紺のワンピースにお気に入りの石のペンダントをぶら下げて、ヒールの高い靴を選んだ。青井の身長が高いからだ。口紅はベージュ。食事をして口紅が取れてしまうのをごまかすために。
「僕、スーツじゃないんですが、いいですか」
「いいわよ、カジュアルな店だから」
「奥様はきれいになさってるのに」
「一応、これでも女だからね」
女だからね。言ってみて、少し胸に突き刺さる。私は本当に女なのだろうか。女であるとは、どういう状態なのだろう。ただ女の性を持って生きているだけで女だと言えるのか。女としての華やぎなどない人生で。若い男と歩くのは久しぶりだと感じながら、私は夫の手を思い出そうとして、思い出せなかった。
夫は赤ワインが好きだった。赤ければなんでもよかったらしい。銘柄もなにも、こだわっていなかった。安物の赤ワインで結構だと言っていた。青井もまた、ワインのことはどうでもいいらしい。私も、どうでもよかった。ただ酔えればそれでよかった。
「あの人が死んでもう五年以上経つのに、青井くんはよくうちで続けてくれるわね」
「ええ。よろしければ今後も」
「もちろんよ。うちでよければ、まだまだ働いてね。あの人も喜ぶわ」
「ありがとうございます」
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