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蛇のように
オーバーホールから帰ってきたパテックフィリップの腕時計を、久しぶりに左腕に巻いてみた。黒の細い革ベルトはあまりにも華奢で、もう若くない私には合わない気がする。いつのことだったか、夫に買ってもらった腕時計。銀色に光る小さな時計。アンティーク物だと聞くが、私にはよくわからない。腕時計に詳しい人が見ると、たいがい目を輝かせる。物静かな時計職人だった夫が、海外旅行先で選んでくれたものだ。
夫がこの世を去ってから、もう六年近くになる。弟子だった寡黙な青井が職を継ぎ、私が店長となり、この時計店は淡々と、時が止まったように続いていた。
「パテック、オーバーホールに出したんですね」
「そう、この前ね。パテックはちゃんとパテックに出せって、あの人がいつも言ってたから。私は青井くんにやってもらってもよかったのに」
「嫌ですよ、僕は。パテックのオーバーホールなんかしたくないです」
笑顔のひとつも見せずに、青井は黙々と作業をしている。彼もまた少しずつ年をとっている。私より十年ほどは若いだろうが、そろそろ中年だ。まだ若さの名残がある白い横顔を、そっと見つめてみる。何も気づかない。美しい彼の横顔を眺めるのが、私は好きだった。
「人間の身体もオーバーホールで生き返ればいいのにね」
なんとなく、つぶやいた。夫が生き返ればいいとは思わない。死んだ人間は帰ってこない。生きている間も、彼は死んでいたようなものだ。夫婦の仲が冷えていたわけでもないのに、私たちはまるで父と娘のような家族になってしまって、手を繋ぐことすらなくなっていた。彼が死ぬ前に手を握った程度のもの。十五も上の夫は兄とも父とも言えない謎の家族で、私たちは霞のような家庭を築いていた。血が通っていなかった気がする。
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