追悼するもの

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日記をつけ始めた時のことを、貴方は覚えていますか? もうだいぶ昔のことなので覚えていないかもしれませんね。でも、私は覚えています。 貴方はお祝いとして貰った私を、すぐには使おうとしませんでした。万年筆は高いし勿体無くて使えない、そんなことを言っていましたね。 でも、日記を書き始めるにあたって「大事な記録だから、親父からもらった特別なペンで書きたい」と貴方は言いました。 そして私は日の目を見ることになったのです。 私を大切に使ってくれた貴方。 貴方との日々を、私は忘れません。願わくば、これからも貴方と共にありたかった。 私の中に残るインクはあと少し。 きっと、もう使われることなく干からびるのでしょう。 「あ、これ、」 《葵》さんが、サイドボードの上においてあった私を見つけました。《葵》さんは私を手に取ると、私を《豊》さんに見せます。 「これ、おじいちゃんが大事にしてたペンだよね?」 「本当だ、」 《豊》さんはこういうと私を受け取って泣きそうな顔で笑いました。 「これ見ると日記書いてたときの親父を思い出すなぁ…。」 「…ああ。その万年筆はね、あの人の相棒なのよ。」 春子さんが、だしぬけに言いました。 「その万年筆、インクがあと残りちょっとのはずよ。つい最近、寝るときにあの人が『インクのカートリッジをそろそろ交換しないと』って言ってたから。 その時に私が『長いこと使ってるわね』って言ったら、これは死んだ親父がくれたもので、大事過ぎて使えなかった、日記を書き始めるときに使い始めたからもう60年近く使ってる、大事な相棒なんだって言ってたわ。」 春子さんは《豊》さんから私を受け取ると、指先で私をそうっと撫でました。 「インクを替える前に死んじゃうなんて、思ってもみなかったでしょうね。 …まだまだ使うつもりだったのにね。」 ああ。 私はリビングにいるから、寝室での会話なんて知らなかった。 貴方は、私のことを相棒と思ってくれていたのですね。 まだまだ生きて、私を使って下さるつもりだったのですね。 貴方の生きる予定の中に、私も含まれていたのですね。 私を使い始めたときのことを、覚えていてくれたのですね。 「しんみりしちゃうわね。 この万年筆を見ると、あの人のことを思い出して。」 春子さんが言いました。 今はただ、ともに故人を悼むのみ。 (終)
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