追悼するもの

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『今月で定年。長かったような短かったような。最後まで頑張って勤めあげよう!』 毎月、空きスペースにその月の目標を書いていた貴方。難しいことは書きませんし、カッコつけたような表現もしません。 素直で飾りっ気のない文章は、ともすれば、まるで小学生のような文章なのですが、今となってはそれも微笑ましい限りです。 貴方は定年まで毎日毎日、その日々を綴っていきました。お天気について書いた日もありました。玄関のツツジについて書いた日もありました。 この日記を読まなければ、誰も分からなかったでしょう。庭や玄関の植物の見頃を貴方が気にしていたなんて。いつ剪定したらいいか、ちょこちょこと考えていたなんて。 けろっとして、お酒が大好きで、能天気そうに見える貴方が、実は色々と事細かに見ていたなんて。 『本日定年。無事勤め上げることができてホッとしている。しばらくはゆっくりさせてもらおう。夜、ビールを3缶と焼酎を飲む。腰が痛い。』 このころから健康に気を使うようになったのか、自分の体の不調について細かく書くようになりましたね。あと、お酒の量。 お酒を減らせばいいのに、貴方は最後までそれはしませんでした。本当に大好きだったのね。 『ゆっくりするのに飽きた。なにか仕事を探そうかな。散歩15,452歩。飲み会がないのが寂しい。』 『雨が降ったせいか腰が良くない。ジクジク痛む。歳かな。春子、友達とバス旅行へ。』 『膝が良くないので散歩は休み。仕事をしていた時に比べ書くことがない。まいったな。休肝日。』 ポツリポツリと書かれる日常。きっと貴方を知らない人がこれを見たら、酷くつまらない日記なのでしょう。仕事を辞めてからは家の中のどこを掃除したとか、そんなことも書いていましたね。 『《豊》の結婚が決まる。めでたい。昼、整形外科に行った。湿布をもらう。ビール2缶、日本酒を飲んだ。』 仕事を辞めてから、毎日つまらなそうだった貴方。でも息子の結婚が決まってからは、楽しげな内容がぐっと増えましたね。 『本日晴天。《豊》結婚式。祝い事はやはり良い。終始大盛況。たくさん笑った。』 『孫が出来たと報告が入る。めでたい。俺もいよいよ“おじいちゃん”か!』 「俺」という言葉を日記の中で使うのは珍しくて、ちょっとだけドキッとしました。祝い事と他愛もない日常が書かれた日記は、まだまだ続きます。 『隣の田村さんがみかんのおすそわけを持ってくる。散歩16,112歩。春子、夕食後にお腹を壊す。大丈夫かな。』 『春子、胃腸科へ。食あたりとのこと。猫が庭にやってきた。いつもと違うルートで散歩13,752歩。夜、腰が痛くなる。』 『麻衣子さん、出産準備のため実家に戻る。《豊》はそのまま残って仕事。孫は女児とのこと。楽しみだ。』 『麻衣子さん出産!!』 大きな赤い字で、書かれた文章。その隣には『母子ともに健康。03:12に生まれる。2789グラムの女児。すぐに見に行く。可愛い。良い日ダナ。』と書いてあります。 孫が生まれることを、楽しみにしていたものね。 そして、それからの貴方の日記は孫の成長記録になりました。 『《葵》と命名。可愛い。《豊》、麻衣子さん実家へ招かれる。夜は向こうで食べた。庭の草むしりをする。休肝日。』 『《葵》が麻衣子さん実家へ。寂しい。腰が痛い。湿布を貼るも効き目なし。病院を変えようかな。』 『《豊》一家、金沢へ戻る。《葵》の写真を送るように頼んだ。病院にて大学病院を紹介される。難儀なことだ。ビール3缶、ウイスキーを飲む。』 『《葵》の写真が届く。笑うようになったと。可愛い。早く《豊》一家が帰省しないかな。自転車で町内一周してみた。』 日常と、息子と、孫と、自分の健康。ごく普通の毎日を、貴方は綴り続けました。
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