45人が本棚に入れています
本棚に追加
日記をつけ始めた時のことを、貴方は覚えていますか?
もうだいぶ昔のことなので覚えていないかもしれませんね。でも、私は覚えています。
貴方はお祝いとして貰った私を、すぐには使おうとしませんでした。万年筆は高いし勿体無くて使えない、そんなことを言っていましたね。
でも、日記を書き始めるにあたって「大事な記録だから、親父からもらった特別なペンで書きたい」と貴方は言いました。
そして私は日の目を見ることになったのです。
私を大切に使ってくれた貴方。
貴方との日々を、私は忘れません。願わくば、これからも貴方と共にありたかった。
私の中に残るインクはあと少し。
きっと、もう使われることなく干からびるのでしょう。
「あ、これ、」
《葵》さんが、サイドボードの上においてあった私を見つけました。《葵》さんは私を手に取ると、私を《豊》さんに見せます。
「これ、おじいちゃんが大事にしてたペンだよね?」
「本当だ、」
《豊》さんはこういうと私を受け取って泣きそうな顔で笑いました。
「これ見ると日記書いてたときの親父を思い出すなぁ…。」
「…ああ。その万年筆はね、あの人の相棒なのよ。」
春子さんが、だしぬけに言いました。
「その万年筆、インクがあと残りちょっとのはずよ。つい最近、寝るときにあの人が『インクのカートリッジをそろそろ交換しないと』って言ってたから。
その時に私が『長いこと使ってるわね』って言ったら、これは死んだ親父がくれたもので、大事過ぎて使えなかった、日記を書き始めるときに使い始めたからもう60年近く使ってる、大事な相棒なんだって言ってたわ。」
春子さんは《豊》さんから私を受け取ると、指先で私をそうっと撫でました。
「インクを替える前に死んじゃうなんて、思ってもみなかったでしょうね。
…まだまだ使うつもりだったのにね。」
ああ。
私はリビングにいるから、寝室での会話なんて知らなかった。
貴方は、私のことを相棒と思ってくれていたのですね。
まだまだ生きて、私を使って下さるつもりだったのですね。
貴方の生きる予定の中に、私も含まれていたのですね。
私を使い始めたときのことを、覚えていてくれたのですね。
「しんみりしちゃうわね。
この万年筆を見ると、あの人のことを思い出して。」
春子さんが言いました。
今はただ、ともに故人を悼むのみ。
(終)
最初のコメントを投稿しよう!