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『第3話』
☆彡 ☆彡 ☆彡
「ちょっとやりすぎてしまいましたね。」
とある外国のお池に、少しだけ左遷されていた幸子さんだったが、何しろ言葉がさっぱり判らないものだから、ほとんど仕事にならず、ひたすらショパンばかり聞いていた。
それも、女王様のお出しになったCDで。
幸子さんとしては、精いっぱい女王様のご機嫌をとっていたつもりだったのだけれども、他の、池の管理者である『女神さま』達からみれば、幸子さんは、ただ遊んでいるだけ、としか見えなかったのだ。
まあ、クラシック音楽をちゃんと理解できる、池の『女神さま』は自分くらいだから、と幸子さんは平素から思ってはいたのだが、実は女王様が全女神さまにCDを配っているとは考えない幸子さんだった。
それでも、やっと女王様のお怒りが解けて、『不思議が池』に帰って来たころには、もう山は紅葉も終わって、冬支度に入っていた。
しばらくお留守にしていたせいで、いつの間にかごみが溜まってしまっていた。昼間は目立つので、夜になってから、幸子さんはゴミのお片づけに勤しんでいた。
と、言ってもそう難しいことでもない。ゴミたちに命じて、エネルギー転換装置に入ってゆくように指示するだけだ。
ほとんど作業が済んでしまって、幸子さんは額を手でぬぐいながら(汗は別にかいていないけれど)、一休みした。
「やれやれ、女王様は、わたしの代わりを置かなかったのね。」
なんとなく、女王様のお気持ちが、幸子さんに伝わって来た。
その夜中になって、一台の軽四自動車がやって来た。
「おや、何だろうな。男が一人乗っている。きちんとしたスーツ姿ね。典型的なサラリーマンってところかなあ。」
男は、多くの人がそうするように、池の崖っぷちに車を止めた。それから、助手席に置いてあった小さな楽器のケースを取り出して、組み立て始めた。
それは、フルートだった。
「あらま、今頃練習かしら。ちょっと聞かせてもらおうっと。」
幸子さんの耳は、鬼の耳である。感度は抜群だ。
その気になれば、三キロ先の人間の会話だって聞こえる。
けれど、感度が良いだけでは音楽はわからない。
その点、幸子さんには音楽を聴く、良い耳があった。
男は、やがて笛を吹き始めた。
幸子さんにとっては、遠い昔に都で聞いた、源博雅さまの笛の音が忘れられない。あの時博雅さまといっしょに合奏をした鬼は、別に幸子さんの知り合いではなかったが、同じ鬼としては羨ましかったものだ。
しかし、今この男が吹き始めたのは、それとは大きく趣旨の違う音楽だった。
とはいえ、よい音楽には、相通じるものがある。
おりしも、満月となったその夜、この男の出す音は、『不思議が森』にこだましながら、池の面をゆったりと流れて行った。
「これは、ヨハン・セバスチアン・バッハの『無伴奏パルティータイ短調』ね。ううん。よい音ね。でも、指は少しあやしいな。プロではなさそう。アマチュアなら、上等の部類ね。ここにはピッたしの音楽ね。」
幸子さんは、池の上に座って聞いていた。もっともその姿は人間には見えない。
特に、サラバンドは素晴らしかった。まるで、この世への決別を告げるような音楽だ。
「ううん、この人、何か危ないな。」
幸子さんは直感した。
激しい音の舞いを経て、曲は終わった。
男は、笛を大きく持ち上げ、そうして少し胸の前に抱えてから、突然池の中に投げ入れたのだった。
同時に、幸子さんは池に潜った。
男は、池の中から、赤い閃光が閃くのを見た。ついで水柱が上がり、その中から、輝く女神が現れるのを見た。
女神が言った。
「あなたが落としたのは、この笛ですか、それとも、金の斧ですか?」
いったい何万回言ってきたかわからないこのセリフを、しかしシリアスに言いのけるところが、幸子さんの真骨頂なのだ。歌舞伎の役者のような感じだ。
男は、しばらく茫然としていたが、しかしやがて答えた。
「金の斧です。」
幸子さんは、にっこりして言った。
「あなたは、大嘘つきですね。さきほど、バッハを吹いていたではありませんか。あれは、斧の出す音ではありません。笛の音です。さあ、正直に言いなさい。」
男はあっさりと言った。
「ええ、そうですよ。だから、両方とも、あなたに差し上げます。ぼくには、もう必要のないものですから。」
幸子さんはむっとして言った。
「まあ、可愛げのない人間ね。これ、もしかしたら金の笛じゃないの。」
「いいえ、銀の上に金メッキをしたものです。」
「あ、そう。でも、いいものでしょう。あんなによい音がしていたもの。」
「まあ、悪いものではないですよ。でも、もう僕には必要ありません。」
幸子さんは、今度は人間によく見えるように、池の上に足を投げ出して座った。
「事情を話しなさい。聞いてあげるわよ。」
男は答えた。
「いえ、あなたには関係のないことですから。」
「まあ、失礼ね。せっかくこうして出てきてあげたのよ。あなたの演奏、よかったわ。まあ、女王様や博雅さまには届かないとしてもね。」
「博雅って、源博雅のこと?」
「もちろん。」
「へえ、知ってるの。」
「だって、わたし神様だもの。だから、神が聞いてあげると言っているのよ。言わなきゃ罰が当たるわよ。」
男は少し考えてから、話し始めた。
「ぼくは、町のアマチュアオケで笛を吹いてきました。これまでは、アルバイトをしながらやってきてましたが、一昨年結婚して、でも、同じようにしてきてました。しかし、すぐ子供が出来て、それではもう経済的に成り立たなくなりました。
で、最近、とうとう正社員として就職したのです。ところが、オケの練習と、仕事の時間がぶつかるようになってきて、会社の専務さんから、音楽を辞めるか、仕事を辞めるか、どちらかにしなさいと言われました。ぼくは決断しました。妻や、子供のために、笛を止めて、仕事に専念する、と。それで、今夜を決別の夜と決めました。」
幸子さんは、足を組み替えながら言った。
「ふうん。でも、まあ、別に捨てなくてもいいでしょう。もったいない。タンスにしまっておいて、時期が来たらまた再開するとか、楽器屋さんに中古で売るとかすればいいじゃありませんこと?池に放り込むなんて、笛が可哀そうです。」
「いえ、それが、僕の決断なんです。そのくらいしないと、僕は音楽と別れられないのです。」
「あなた、そんなに音楽が好きならば、なおさらでしょう。ほら、返してあげるから、ちゃんと家で保管しなさい。ときどき休みの日に手入れしてあげなさい。」
「専務さんから言われています。仕事は365日休んではいけない。正月だけは例外だが。会社が休みの日は、情報を集めて回ったり、勉強したりしなさい。朝は5時から活動を始め、夜、会社は9時以前に帰ってはいけない。そのあと会社を引けたら、夜中の12時まで勉強しなさい。毎日疲れ切って、気が遠くなって、いつの間にか朝が来るくらいでないと、一人前のサラリーマンではない。それを実践するようにと。」
「それって、いつの時代のこと?」
「今です。まさに、今。僕のためじゃない。家族のために。」
「ふうん。どうしても?」
「僕は決断しました。必ず、会社で成功すると。じゃあ、これでもう帰ります。そうは言っても、多少は寝ないといけませんから。」
男は車に乗り込もうとした。
幸子さんは立ち上がって言った。
「いつでも、その気になったらここに来なさい。楽器はすぐ返してあげるから。それと、斧は持って行きなさい。記念品よ。」
男が気がつくと、助手席に斧が乗っていた。彼は、そこにあった楽器ケースといっしょに、斧も池に投げ込んで叫んだ。
「女神さま、僕は生まれ変わる。きっとエリートになる。」
彼は、走り去っていった。
その夜の、明け方近く。
なんとなくぼうっとしていた幸子さんは、しくしくと泣く女の声を聞いた。
ふっと見上げてみると、例の鏡の前に、若い女性が座りこんで泣いていたのだった。
「まあ、珍しい。あなた幽霊さん?どこから来たの?」
彼女は、あのフルートを指差した。
「え、この楽器? まあ、それはあまり聞いたことのないお話ね。呪いのバイオリン、とかってお話はどこかで聞いたような気がしますが、呪いのフルートってのは覚えがないわ。」
「呪ってなんかはいません。」
彼女はひっそりと言った。
「わたし、捨てられたんですか?」
「あの、あなたフルートの精か何かなの。」
「違います。わたし、彼の元恋人です。」
「元?なの。」
「はい。元、です。正確にいえば、高校生時代の、です。」
「まあまあ。それはまた大変な・・・。でも、どうして幽霊なんかやっているの?」
「わたし、高校生の時、吹奏楽部でフルートを吹いていました。彼は、私の隣で吹いていた一年先輩でした。あこがれていました。いえ、大好きでした。」
「向こうはどうなの?」
「たぶん、好きだったと、思います。」
「本当に?」
彼女はうなずいた。
「でも、わたしが2年生の時、病気になりました。重い病気で、半年くらいで、わたしは死んでしまいました。」
「まあ、可哀そうに。」
「わたしが死んだとき、彼はそこにはいませんでした。授業だったから。」
「まあ、それは仕方がないでしょうね。」
彼女はまたうなずいた。
「わたし、それから、でも、どうしてもこの世から離れられなくて。それで、彼の楽器に乗り移りました。」
「ふうん。そのまま、ずっと・・・。」
「はい。わたしは、楽器になりました。彼が笛を吹くときには、わたしの唇は、ちょうどフルートのマウスピースになっていて・・・つまり・・。」
「えー!それって、つまり、あの人が笛を吹いている間中、ずっと・・・という事なの?」
「はい、そうです。」
「それは、止められないわね。という事は、彼が結婚してからも、ずっと・・・だったのね。」
「はい。」
「まあ、あきれた。」
「でも、彼は元々あまり上手ではなかったのです。つまり、笛がです。あの、昨夜のバッハのような音は決して出せませんでした。彼のアンブシュアの技術には問題が多かったの。それを、わたしが、こうやって、直接、直していってあげたのです。」
幽霊さんは、彼を教えている振り手振りをしたのである。
「わかった。よく、わかりました。もうしなくていい。ふうん、そうなんだ。つまりあの男が今のように上手になったのは、あなたのおかげという訳か。」
「はい。でも指の廻りは、今でも、もう一つなんです。」
「うんうん。確かにね。ちょっとよろけていたもの。」
幽霊も、納得したように、またうなずいた。
「でも、昨晩、わたしは、捨てられました。ああ、もうだめです。おしまいです。」
幸子さんは、慰めにかかった。
「まあ、でもね、気の迷いというか、いえ、やむおえない事なのよ。今は、家族の将来などを考えて、仕事をしなければ、という事に一生懸命になっているの。多くの人には、誰しも、そういう時期というものがあるの。趣味では、ご飯は食べられないからね。『資本主義の本質的特徴』なのよ。彼は働かなければ食べられない立場なのでしょう? 失業状態が続いてしまっては大変。あなたがそれで悩んではだめよ。いずれ余裕が出来たら、きっと引き取りに来るわ。あなた幽霊さんなら、多少は待てるでしょう?」
「『人々が、月を欲するために失業が生じる』と、ケインズ先生は言いました。過剰な欲求が失業をもたらす。でも、わたくしは、月なんか欲しくないの。欲しいのは彼だけよ。」
「まあ、確かにね。でも、いい、あなたは死んだのでしょう。ならば、どうにもならない事というものがあるの。私はもう長い間神様をやってきているから、あなたより良くわかるの。人間を愛しても無駄よ。」
そう言われて、彼女は激しく泣きだした。幸子さんは、少し言いすぎたと思って謝った。
「 ああ、御免なさい。言いすぎたわね。愛してもいいのよ。ね、でもね、・・・まあ、ほらお饅頭でも食べて、気を鎮めなさい。『お気楽饅頭』おいしいわよ。」
「呪ってやる。」
「え?何?」
「呪ってやるの。祟ってやるの。あいつを。」
「いえ、駄目よ。そんなこと。やめなさい。それは良くないことです。」
「もう決めたの。思いっきり呪ってやるわ。決めました。お饅頭ください。」
「はい、どうぞ。でもね、『人を呪わば穴二つ』と言うでしょう。ね、おやめなさい。」
「わたしはもう、穴に入っておりますから、ご心配には及びません。」
「まあ、あなた可愛いと思っていたら、以外に皮肉屋さんね。」
「これは、論理的に必然的な結論です。迷いはありません。」
「どうしても?」
「はい。やります。神様は黙っていてください。」
幸子さんは、物憂げに彼女を見つめていた。
どうやら、幸子さんの悪い癖が動き始めたようだった。
幽霊は夜明けまで池の底にいたが、朝日が昇るとともに、どこかに消えていった。
「まだここにいるのかしら。」
幸子さんはそのフルートをじっと見た。
「ちょっとしまっておきましょう。くわばらくわばら。」
幸子さんはそう言うと、楽器を奥の金庫にしまい込んだ。
「これでよしっと。まあ要は、あの男に時々吹かせれば良いわけよ。相手は誰にも見えないんだから、遠慮はいらないわ。でも、それってつまり、やっぱり幽霊に取り憑かれるってことになるのかしら。このまま別れさせた方がいいのかな。いえいえ、それではあの子が可哀そう。それにもう一度見てみたい・・・いえ聞いてみたいし。問題は、あの男、何処に勤めているのかよね。彼女に聞いておけばよかったなあ。何処に行けば分かるかしら。そうだ、町のアマチュアオケとかに入っていたって言ってたわね。ふんふん、電話で聞いてみようっと。まあ、まずはコーヒーでも淹れましょう。」
時間を見計らって、幸子さんは町のホールに電話で聞いてみた。確かにアマチュア・オーケストラがあるとのこと。しかも、ちゃんとホームページもあるという
。
「よしよし、どれどれ。おおー、あるある。やったー、メンバー表もある。フルートは3人いるけど、男は一人だけ。なるほど。では、電話帳で確認しましょう。簡単、簡単。ほらほら、ありますように。運がいいと言うか、あるじゃないですか、これが。よし住所判明。明日の朝は張り込みね。今夜は、ゆっくり池のお掃除をしましょう。」
次の朝・・・
幸子さんの一日は、女王様から、全女神様にあてて発信される、『朝のお言葉』から始まる。昔はきちんと直立不動で聞いていないと叱られたものだった。
「でも、最近は、女王様ご自身が、高校生のお体の管理や、『王女様』や、『巫女様』のお仕事もお忙しいし、演奏会もすっごい増えたし、色々おありのようで、難しいこと言われなくなった。こっちは寝たままで聞いていても良くなったから楽でいいけれど。」
『不思議が池』のふもとの町は、昔は小さな里だった。
でも、今は人口40万人以上の、ひとかどの都市になっている。
秋も深まった朝の町は、相変わらず忙しい。
幸子さんの精神は(といっても、もともと神様だから精神みたいなものだが)あらかじめ調べておいた、あの男の家を目指した。
平屋の小じんまりした(もう少しいえば小さい)借家らしき建物だった。
「今の女王様のお家からみたら、針の穴くらいの大きさね。でも人間だった私の生れた家に比べたら3倍くらい、いえ、もっとある。なにしろひと部屋で、まああれが部屋と呼べればだけど、トイレもお風呂も台所も、ガスも水道も井戸も、電気も押し入れも玄関もなかった。立派なものよ。」
家の前には、あのガタガタの小型車が止まっていた。
もしかしたら、いや、多分、フルートの方が値が張るんじゃないかと幸子さんは思った。
「それを、池に放り込むなんて、やはり尋常ではないわよ。」
男が家から出てきた。奥さんらしき人が、まだやっと立ち上がったくらいの男の子を抱っこして出てきた。そうして、その子の小さな手を振りながら、
「行ってらっしゃい。」
をしている。
「まあまあ、幸せなことね。私はこんな経験ないものね。羨ましいなあ、羨ましいなあ、羨ましいなあ。」
幸子さんは、しみじみとつぶやいた。
「おっと、大変、オッかけなきゃね。」
男の車は、ガタピシと軋みながら、綺麗な道路を危なっかしく走って行った。走るというより、まるで何かに引きずられている、と言った方がましなくらいだ。
「車検、ちゃんと通ってるの?この車。」
幸子さんの心配はよそに、その車は、外見からは意外なくらい、真面目に、慎重に、丁寧に走り続けた。道はそれほど混み合う事もなく、15分くらいで、どうやら目的地に着いた。
3階建ての、小さなビル。
「ま、でも立派なものね。ふうん。建設会社か・・・。『韋駄天建設株式会社』 まあ、かっこ良い。わたし、どっちかと言うと、お釈迦様に追っかけられた方の仲間だけれど。」
男は車を裏の駐車場に止めると、会社の中に入っていった。
「ふうむ。あの男、仕事は何かしら。スーツ姿という事は、営業さんかな。」
暫くして、従業員15人ばかりが集まって、朝礼になった。女性が二人いるが、あとは男ばかり。
「前側の真ん中にいるのが社長さんかな・・・。なんか大学の先生みたい。左隣は怖そう。あ、でもあの向こう側の人、カッコいいなあ。ちょっと好きな感じね。肩なんか、すごい素敵!」
例の男が、大きな声をあげて叫びはじめた。そのひとフレーズごとに、全員が後追いで叫んでゆく。
「経営の理念!」
≪経営の理念!≫
「我々『韋駄天建設』はあ!」
≪我々、韋駄天建設はあ!!・・・以下同じように繰り返す・・・≫
「社会のために、常に正しい建設理念を持って、前進し続けなければならなーい。そのために、我々はあ、絶えず奮励努力を忘れず・・・・・・」
みな、手を前に組んだり、後ろに組んだりしているので、ポーズまでが決められているわけではなさそうだった。
「むむむ、古典的だけど、極端に独裁的な感じではないなあ。それにしても、フルートの音とは大違いのひどい声ね。」
幸子さんは、興味深そうに天井から眺めていた。
「わたし、こういうの苦手。でも百年に一度の『女神さま研修』で似た事やらされる。ホントに女王様は昔は怖かったものねえ。このごろ、なんかすっごく、お優しくなった。まあ今は、十七歳だもんね。『朝のお言葉』も、ずっとソフトだし。でも最近わたし、気が緩んでるかしらね。」
『経営の理念』が終わると、社長さんらしき男性の左横に立っている、あの恐ろしそうな、初老の男が話し始めた。
「今日は、常務が出張です。私、から、まず話します。『からすが』泣かない日があっても・・・・」
「なんか、やっぱりこの人怖い。体が自然に震えそう。それに、難しそうなお話ね。あれを毎日考えるのだったら、大変。そう言えば女王様もだけれど。私になんかは無理。」
幸子さんは、かなり気後れしだしていた。
「・・・なので、常に全力で、集中して仕事に取り組んでほしい。特に実績の上がっていない人は。・・・・・では、社長。」
その恐ろしい男の人は、全員を右から左に、次いで左から右に、睨めまわした。
そうして次に、真ん中の温和そうな人が、対照的に、ニコニコしながら言った。
「いや、専務が全部言ってくれたから、ありません。ただ、怪我だけは、絶対にないように、安全第一で行きましょう。じゃがんばって。」
朝礼は十分程度で終了となった。
「こちらは、まるで、菩薩様みたいな方ね。でも、お目当ての専務さんが、あの人か。これは手強そうだなあ。いえいえ、わたくしは、神様です。おまけに、鬼女なんだから、負けない。鬼の素顔を見せてもいいわね。」
いよいよ、幸子さんの出番が近づいて来ていたのだ。
専務は、まもなく三階の小さな部屋に収まった。そこにはパソコンは勿論のこと、幸子さんがよく知らない変わった道具もあった。
斜めになったでっかい板の上に、大きな定規のようなものが取り付けられている。(製図台のこと)
幸子さんは、声をかけた。
「おはようございます。専務さん。」
専務は周りを見回したが、誰の姿もない。
「ここです。専務さん。」
「む、誰かな。何処にいる。見えないが。」
「ここですよ。ほら。」
幸子さんは、天井付近で、ようやくその姿を現した。けれども、その体の半分以上は透き通っている。
相手がいやでも見上げる格好にするためだ。
「お前は、いったい何だ?」
彼は、少しも驚いたり、引き下がったりしなかった。堂々としたものだ。
『さすが、こやつ出来るな。』
幸子さんは思った。
「わたくしは、不思議が池を統べる女神です。あなたに、お願いがあってやって参りました。」
「不思議が池? ほう、あの池か。そんなものが、なぜここに来る。ここは陸(おか)だ、君が来るような場所ではなかろう。」
「ええ、確かに。普段は参りません。ただ今回は、是非その必要がありました。この会社に、緒方之介という男がいますね。」
「ああ、コレか。まだ新入りだがね。確かにいるよ。」
「その男が、先日夜中に、これを投げ入れて行きました。」
幸子さんはフルートの影を映しだした。
「ああ、ピーヒョロリンか。」
「フルートです。」
幸子さんは、念を押すように言った。
「うん、そんな名前だったが、そうか、あいつ、捨てたのか。」
「はい。わたくしとしては、池の中に、この様なものを捨てられては非常に迷惑です。是非引き取りに来ていただきたいのです。」
「ふうむ。しかし、池に物を捨てる人間は多いだろう。ゴミとか、まあ廃棄物を。いちいち構っていては、あんたも仕事になるまい。」
「確かに。でも、それを構うのが私の仕事ですから。」
「まあ、しかも普通のゴミに比べたら、綺麗なもんじゃないかね。」
「物は、すべて滅んでゆきます。この輝きも、すぐに失われます。一年も経たないうちに、これは廃棄物と化すでしょう。あまりにそれは惜しい。捨てるには勿体ない物です。どうか、引き取りに来ていただくようにあなたから伝えてください。」
「直接言えばよかろう。なんだったら呼ぼうか。まだいるだろう。」
「言う事を聞かないので、あなたにお願いするのです。」
「そうか、あいつ言う事を聞かないか。それはいい。」
「よくありません。それに、もうひとつ、あの男が、時には楽器を吹くことを許してあげなさい。禁止するなど、あまりにむごいことです。」
「むごい? どうして。私は、ただ、この会社で働くならば、音楽から手を引け、それが出来ないならば、ここを辞めなさい、と忠告したまでのことだ。何処が悪いのかね?」
「その両方を成り立たせる道を、認めるように、と、申し上げているのです。芸事は、趣味であっても、一度途絶えれば、再び始めることは難しいもの。今の時代、もう昔とは違います。それに、休日に何をしようと、本人の自由でしょう。」
「君は、監督署のまわしものかね?」
「まわし・・・・『どっかで聞いたようなセリフね。』 いいえ、そういう事ではございません。」
「まあそれはいい。しかし、私の考えは違うね。本当に、この道でプロとして一人前になろうと言うのならば、甘い考えでは、できっこない。私は、家の事情で、中学しか出ていないが、自分で必死に勉強し、寝る間も惜しんで働き、ここまでになった。それと同じ努力をしないで、なんで成功できると思う?
いいかね、私は、あいつを気にいった。いまどきの人間にしては、ぎりぎりの喘ぎを持っているし、それを乗り越えようとする意気が感じられた。しかし、本気でここで出世したいのならば、私の言う様にしなければならない。私がこうなったのだから、それに従えば、悪いことになるはずがない。勿論、あいつには、見込みがあるなんて言いやしない。若い者は、すぐ天狗になる。鬼にならなければならない。あいつがピーヒョロリンを捨てに行ったのならば、それはあいつの決意の表わし方だろう。私がとやかく言うべきことではない。わかったら、帰りたまえ。迷惑だ。」
「まあ、ひどい言い方ね。仮にも女神に向かって。わたくしは、まさに、二千年近くの歳を重ねた鬼神なのです。御覧なさい。」
幸子さんは、あの、世にも恐ろしい、鬼の姿になった。
しかし、専務はまったく、たじろがなかった。
「それが何かね。人間が鬼になったら、それを挫くものは、何もない。関係のないことだ。帰りなさい。もう用はなかろう。塩を撒くぞ。」
専務は、普段から用意していたかのように、塩を振りまいた。
幸子さんは、実は本当に塩が苦手だった。
『お砂糖の方が好き。いったん退散。』
まったく情けなく、彼女は消え去ったのだった。
『不思議が池』の家に帰った幸子さんは、憤懣やるかたなし、という状況だった。
「もう、頭に来たわ。なに、あの男。許せないわ。神様をあのように扱って、どうなるか見てらっしゃい。」
とは言ったものの、幸子さんには良い方策がない。池の中では大きな力のある幸子さんだが、それ以外の場所ではからっきし駄目な神様なのだ。
「ううん。困ったなあ。でも、何とかしてあげたいしなあ。この際あらかじめ女王様にご相談いたしますか。上司に相談するのは、悪いことではないもの。」
前回の失敗に鑑みて、叱られる前に相談してしまえ、という事なのだ。
「ええと、メールっと。でもお忙しいから、いつご返事があるやら。そうだ、まだお饅頭があったわね。
『女王様に申し上げます。おいしいお饅頭を召し上がりにいらっしゃませんか。是非どうぞ。 不思議が池 幸子より』
と、これでよしと。完璧ね。
すると、びっくりしたことに、五分後には、女王様自らが『不思議が池』の幸子さんの自宅兼事務所兼エネルギー基地においでになったのだ。
彼女は、いつもは幸子さんが出入りするドアから、その美しい姿をお見せになった。
薄いけれども、輝くような褐色の肌を持ち、まだ高校生のくせに、幸子さんより大きな胸を持っているうえに、背も、より高く、抜群のスタイルを誇っている。黒い髪を肩の下まで、右側を前に垂らしている。
今日は、いかにもトロピカルな、真っ赤な民族衣装を身につけていらっしゃる。
しかし、女王様ご自身の、実際の年齢はまったく判らないし、その真のお姿は、女神さま達も知らない。
どうやら、この宇宙の創生より、もっと前から存在していたらしいという噂が、女神さま仲間の間には流れていたりもする。
「まあ、女王様、こんなところに、よくおいでくださいました。」
「こんなところといっても、私が作ったのよ、幸子様。」
「あ、あの、失礼いたしました。どうぞこちらにお座りください。どうぞ。」
「ありがとう。」
「あの、お饅頭を是非どうぞ。」
「そうね、ありがとう。ねえ幸子様。」
「はい、女王様。」
「このお饅頭、何時の?」
「あの、三日前に買いましたので・・・」
「ふうん、賞味期限ぎりぎりね。まあ、いいわ。ありがとう。いただくわ。」
「はい、あの、お茶もどうぞ。」
「ありがとう。幸子さん、このお茶は、池のお水で淹れたの?」
「はい、勿論です。ちゃんと沸騰させましたし、とても綺麗なお水ですから。」
「ええ。そうよね、勿論ね。ありがとう幸子様。で、何なのかしら?」
女王様は、お茶の入った湯のみを、そっとテーブルに置きながら言った。
「はい?」
「ご用件は、何だったの?」
「え、あの、はい。王女様はお忙しいのに、わたくしの為に、来てくださったのですか?」
「まあ、確かに忙しいの。今日はタルレジャ王国に帰っているのだけれど、もうすぐお客様の接待があるの。で、何?」
幸子さんは、恐る恐る、いきさつを話したのだった。
「ふうん。あなたの本体は、確かにお塩に弱いのよ。と言うより、嫌いなのね。別にどうなるわけではないんだけれどね。で、そのフルート、何処にあるの?」
「あ、はい金庫の中に、出してきますか?」
「ええ、お願い。」
「わかりました。」
幸子さんは、少しよろけながら、楽器を金庫から出してきて、女王様の前に置いた。
「ふうん。綺麗な楽器ね。」
「はい、あの、銀の上に、金を塗ってあります。」
「そう。幸子さん、詳しいのね。」
「いえ、まあ、はい。」
女王様は、微笑みながら、楽器を手に取った。
「そうねえ、これは確かにもったいないわね。良い音が出そうね。」
彼女は、キーを軽く動かしてみていた。
「あの、女王様は、フルートもお出来になるのですか?」
「あはは、駄目なの。でも楽器は実は持ってるのよ。先日、プラチナ・フルートを、銀座で衝動買いしちゃったの。ルイーザ様に叱られたわ。」
ルイーザ様は、女王様の双子の妹君であられる。
「それって、おいくらだったのですか。」
「まあ、ざっと九百万ってところなの。」
「キュウヒャク・マンドリム、ですか?」
「うん。そう。」
「あはは、そうなのですか。」
「ええ、そうなの。」
『この、お金持ちの、じゃじゃ馬娘め!』
と、幸子さんは思わず、思ってしまったが、勿論口からは別の質問をした。
「この、フルートって、おいくらぐらいなのでしょうね。」
「そうねえ、多分、七十万くらいじゃない?」
「え、でも、そんなにするものですか。」
「そうねえ。だから勿体ないわね。幸子様のおっしゃる通りですわ。」
「はい、本当に、勿体ないです。」
「でもね、その娘さん、今はここにいないわね。でも、ついさっきまでこの楽器に中にいた。私、わかるの。おそらく、幸子さんに憑いて、町まで行ったのね。」
「ええ! つまり、それって。」
「そう、神様に、幽霊さんが取り憑いていたのよ。」
「きゃああ。」
「大丈夫よ、もう落ちてるわ。でも、まずいわねえ、たぶんその娘、『韋駄天建設』に入り込んだのでしょうね。すぐに何かしなければいいけれどなあ。ねえ、幸子さん、その楽器、わたくしに、お預けなさい。今すぐに」
「え、女王様に、ですか。」
「ええ、そうよ。いい、そうすれば、あなたはこの事件から離れられる。あなたの、本来のお仕事に、専念することができるわけなの。おわかりになる? それに、そうすれば、彼を早く助けられるかもしれないの。どうしたの、嫌なの?」
幸子さんはうつむいてしまったのだ。それからうつむいたまま、質問をした。
「女王様は、それで、どうなさるのですか?」
「わたくしは、勿論、しかるべき儀式を行って、その娘を、しかるべき場所に送ってあげるの。『真の都』にね。当然、彼のことはすべて忘れ去っていただくけれど。それで、彼女は永遠に楽しく暮らせるわ。」
「それが、幸福ですか。」
「そうねえ。だって考えてごらんなさい。このまま彼女が楽器の中にとどまって、彼が思いなおしてこのフルートを持って帰って、時々吹いたりするとしてよ、彼女がそれで、いつまでも我慢していられるとお思いになる?」
「え、我慢しないと・・・」
「当り前ですわ。絶対我慢できない。彼を独り占めしたいと考えるようになるわ。いえ、もうそう考えている。きっと。」
「でも、幽霊さんですよ。何もできませんでしょう。フルートを使った間接・・・くらいしか。」
「いえいえ、とんでもない。遅かれ早かれ、その男は彼女にとり殺されることになるでしょうね。」
「そんな、恐ろしい。」
「だって、あなただって、人間に祟ったことがあるでしょう?」
「それは、まあ、確かに。」
「そう、彼女は彼を手に入れたい一心なのよ。だから、わたくしに、楽器を任せなさい。それが一番よ、幸子様。その娘は、いずれにしても一度この楽器に必ず帰ってくるわ。いまは、ここに霊体が執着しているから。ここから大きく楽器の場所を動かしたら、必ず飛んで帰ってくるわ。早くしないと、『韋駄天建設』の専務さんが危ないわよ。あの娘が言った、『呪ってやる』相手は、専務さんのことよ。いますぐ、この楽器の位置を動かしましょう。私が王国に持って帰ります。」
しかし、残念ながら、事態はすでに動いてしまったのだ。
「ヘレナさん」
天から声が掛った。
「なあに、アニーさん。」
「お話し中で恐縮ですが、その『韋駄天建設』の常務さんの車が、事故で大破しました。どうやら制動が効かなくなって、前の大型車に突っ込んだようです。これでは、命が助かるかどうか疑問ですね。助かっても、相当な後遺障害が出るでしょう。」
「アニーさん、介入しなさい。とにかく命は助けてあげて。後遺障害は仕方ないわ。」
「それはいいですよ。でも、まだ地球征服の前ですが。」
「それは、言わないこと。」
「あの、女王様、アニーさんって誰ですか。」
「ああ、わたくしの、ボディーガードなの。どこにでも付いてくるのよ。わたくし、一応、本物の、現役王女様ですからね。」
「そうですか。でも、あの憎たらしい専務さんが事故とは、また何ともうれ・・・・、いえお気の毒な事で・・・・」
「そうじゃやないわ、幸子様。これ多分事故じゃない。その娘が引き起こしたに違いないわ。」
「え、そうなのですか。」
「まあ、間違いなくね。さて、どうするかなあ。 幸子さんどちらにしても、楽器を、早くわたくしに渡しなさい。」
「あの、女王様、できれば少し待ってくださいませんか?」
「また? あなたはいつもそうね。でも今回は本当に危険よ。いい、まずあなた、下手したら、また取り憑かれますわよ。それでもよろしくて? それに、今度は彼が危険にさらされる。多分、専務さんみたいにすぐ殺すという行動には出ないとは思うけれども。あなたは、いったいどうするおつもりなの?」
幸子さんは、答えに困ってしまった。実は、まだ何も考えていなかったのだ。
当然、女王様にはお見通しだったようだ。
「あのね、幸子様、これは、あなたのお仕事じゃない。手を引くのが賢明というものよ。でもね、あなたは神様だから、まあ、命令はいたしませんけれど。」
「はい、もう少し、関わりたいのです。済みません、お許しを女王様。ついでに、是非ご助言をください。今回は、先に。」
「まあ、あきれた、人間に助言を求める神様なんて、聞いたことがない。」
『まあ、この娘、自分を人間のつもりなんだ。まあ、間違いじゃないけど。』
と思ったが、幸子さんはこう答えた。
「女王様のお考えを、直接お聞かせ願えれば、最高の光栄でございますから。」
「ばかね、いいわ、ヒントを差し上げましょう。『ほっときなさい』。いいわね、ほっとくのよ。じゃ、わたくし帰ります。お饅頭おいしかったわ。また来るわ。さようなら。あ、本当に危ないと思ったら、また呼んでいいわよ。じゃね。」
「ああ、あの女王様・・・・・・・。」
幸子さんは慌てたが、女王様は、さっさと帰っていってしまったのだった。
それから、その夜の明け方近く。
幸子さんが、例によってぼんやりしていた時、(神様は寝ないのだが、時々ぼんやりしている時間があるのだった。)のこと。
幸子さんは、丁度、また女王様のCDでショパンを聞いていたのだった。
『夜想曲変イ長調作品32の2』が始まった。
軽い夢のような、アルベジオから開始される。
美しい流れるような旋律が、永遠の中を続いてゆく。
しかし、中間部になって曲想は変わってゆく。どこか悲しく、少し苦しい音楽は、繰り返し、繰り返し、激しく舞い上がり、やがて高揚したまま、再び冒頭のメロディーが帰ってくる。
「なんという、美しさでしょう。」
ふと気がつくと、幽霊がそこに立って、一緒に聞いていたのだった。
「まあ、あなた。」
「こんばんは。幸子様。ご機嫌いかがですか。わたし、この曲大好きだったの。」
「まあ、気分は悪くないわ。良いと言っても良いくらい。本当に素晴らしい曲だわ。」
「ええ。でもそれは、なによりですね。今回はお世話になっております。楽器をあのように大切に保管下さっております事、感謝申し上げます。実は私、少し疲れたので、暫く楽器の中で休もうと思います。どうか、私のことは、気にせずお暮らしください。もし、彼がここに来たら、起こしてくださいね。声をかけてくださるだけで結構です。『目覚めよ愛』とおっしゃってください。あ、お饅頭買う事がありましたら、ひとつでよろしいですから、金庫に入れてください。ではおやすみなさい。」
「あ、あああの・・・・・。」
幽霊は、さっさと消えてしまった。
夜想曲変イ長調は、またあのアルペジオで静かに消えてゆき、CDも止まった。
「もう、女王様といい、幽霊さんといい、自分勝手なんだから。」
幸子さんは愚痴ったが、どうにもならない。
「まったく、神様というものは、人間にも幽霊にも良いようにこき使われて、頂いたお賽銭も、結局は人間の物になってしまう。立派な建物が建っても、人間はちっとも進歩しない。神様は損な立場ね。『神は搾取されている。いまこそ立ち上がれ万国の神々よ!』と言いたいくらいだわ。まったく。今度天国に、マルクスさんにも会いに行こうかしら。あら、今は天国じゃなかったっけ。また『天国通信』を確かめて見ましょう。さてと、でも、どうしようかなあ。」
幸子さんは、じっと、ぼんやりと、考え込んだ。
彼は、病院に見舞いに来ていた。
専務の意識は回復し、やがて車いすに乗って動くことは、なんとかできるようになるだろう。しかし医師の判断では、一生車いす生活で、高次脳機能障害も発生しているため、新しい記憶の保持はかなり厳しいものがあるようだった。また腎臓の機能にも障害が起こっており、腎ろうなどもしているが、この先の見通しはあまり良くなく、仕事への復帰は困難な状況だった。
「ずいぶん、部下の人たちをいじめて来たから、罰があたったのよ。」
奥さんは、あっさりと言った。
「そういえば、事故の後、うわごとのように、ずっと繰り返して言っていました。『不思議が池の女神』にやられた。あいつが犯人だ、と。叫ぶこともあって、もう、うるさくて。」
「え、『不思議が池の女神』ですか。」
「そうなの。警察の方にも、さかんに、あいつが来たんだ、女神だ、鬼だって。でも、警察の方は、意外に真剣に聞いて下さって、なんと副署長さんまで来られたの。何かあるのかしらね、『不思議が池』って。私の親も、『あの池は、昔から危ないから近寄るな、絶対に物を投げ込むなって、言われて来た』って話していました。行ったことはないけれど。」
「そうなんですか。『女神さま』ですか。」
「あなた、なにかご存知? この馬鹿な人間鬼を、それでも元気にしてくれる情報があったら、教えてくださいね。こんどまともになったら、若い人たちを大切に扱うように、しっかり言い聞かせますから。」
「はあ。」
「余計なこと言いますが、あなた、無理しちゃ駄目よ。人生は仕事だけじゃない。遊びも、恋も大切よ。この人は学校に行けなかった負い目もあって、ただひたすら、仕事と勉強、しか考えてこなかった。立派だった、とは思っています。でも、物事には、『ちょうど良い目』があります。無理はダメよ。」
「はい、ありがとうございます。」
「ばかもん。無理をしなくてなんで壁が破れるか。『無理』するから進むんだ。ばかもの!女神などに判るはずがない。ばかもの!」
寝ていた専務が、何時の間にか目を見開いていた。
「はいはい、そう『ばかもの』を連発しないでください。体に障りますよ。」
「ばかもの、お前は女子大を出てるからといって、偉そうに言うな。ばかもの。おれは、負けないからな。必ず勝ち抜く。絶対に頂点に立つ。ばかもの!」
「あなた、社長さんの前でそういう事言わないでね。まったくもう、困った人なの。勝つことしかない人だから、今回は女神様に負けたと言って、大変なの。神様相手に戦争しても、勝ち目はないでしょう、と言ったんだけれど。なにか、それこそ、池の神様の気に障る事したんじゃないかしら。そう言えば、そうそう、楽器を取り返さなくては、とか。言ってましたけど、よく分からなくて。あなた心当たりない?」
「はあ、いえ、それは。」
若い男は、何か気になることがあるような感じだったが、奥さんは追及しなかった。
「まあ、コーヒーでも飲んで行って下さい。あなたも、休息が大切よ。」
「ありがとうございます。あの、その事も警察に話しましたか。」
「ええ、勿論。でも、本人の言う事は、どうも曖昧なの。」
「そうですか。」
彼は、ただそう言った。
警察では、副署長が交通事故の担当者などを集めていた。
「車の制動装置に、異常は見られませんでした。」
「本人は、どう言ってる?」
副署長は尋ねた。
「ブレーキを踏んでも踏み込めず、アクセルが勝手に吹いたと。」
「しかし、まあ、調べた限りでは、特に問題は見られません。もっとも車はぐちゃぐちゃですが。」
「まったく、どうして生きていたのか、そちらの方が不思議なくらいです。」
「で、おかしなことを盛んに言っていると。」
副署長は、あまり気にしてないが・・・という感じで尋ねた。
「いや、まったく、あれだけ頭もダメージを受けていますから、ほとんど夢なのでしょう。あの事故の日、車に乗る前に、『不思議が池』の女神がやってきて、お前の会社の社員が、池に捨てた楽器を返すから取りに来いと言われたのだそうです。しかし、それを専務は断った。すると美しい女神は、鬼に変わって脅迫してきたと。それでも、塩を撒いたら消えてしまった。その後車に乗って、高速道を走り始めて間もなく事故にあった、という事ですね。だから、犯人はその女神だ、と。」
「証拠は?」
「あるわけないでしょう。そんなもの。」
「その、楽器を捨てた会社の男、と言う人間が、実際にいるかどうかは、確認したのかね。」
「ええ、いるんです、これが。」
「ほう。話は聞いたのかね。」
「はい、一応。その男によれば、フルートを確かに池に捨てたそうです。専務から、仕事を選ぶか、趣味を選ぶか決めるように言われ、仕事に専念することを決意して、その自己確認のために、捨てたのだそうです。別に強制などはされていないと言っています。池の女神のことは、当然、何も知りませんと、言っています。」
「おれの知っているところでは、あの会社は労働基準監督署からマークされていたらしいが。」
「まあ、長時間労働や休日出勤が普通になっているという状況があったらしいです。しかし、営業職の場合は、ちょっと働き方が特殊ですし、技術職も立件には至っていないようです。労働条件の評判は、あまり良くないですが。でも社長は学者肌のおとなしい人ですよ。」
「問題は、専務なんだろう。しかし、その男、本当のことを言っているのかな。」
「は? 副署長は、何か疑っておられるのですか。」
「いや、いいよ。ありがとう。じゃあ、交通関係の人は、これでいい。あと、『I・K・E(アイ・ケー・イー)班』は残ってくれ。」
一部の人が後に残った。『I・K・E』とは、要するに『池』のことだ。
「さて、班長、どう思う?」
「また、例の女神さまでしょう。我々も見た、あの化け物です。」
「まったく迷惑な事だ。あんなこと信じたくもないが、ここにいる我々は、皆、あれを見た。」
「ええ、しかし、映像にはまったく写りませんでした。」
「そうさ。つまり我々は全員、幻を見た、としか言えない。」
「でも、あれだけの署員が見たのです。幻覚じゃあないですよ。しかも、一つだけ証拠はあります。音です。音は、収録されております。われわれがまさに経験した通りの音と、声。立派な証拠です。」
「そうさ。公開してないが、あれは貴重だ。あれがあるから、上層部も下手にもみ消せない。しかし、見えるのに、ビデオや写真には写らない。ありうるかね。」
「常識では、考えられないでしょう。なにしろ夜中でも写る特殊カメラですよ。」
「何か、トリックがあるんだろうな。しかもあの女神は映像じゃない。実際に人間を抱えて下ろしたり、饅頭を持ち逃げしているんだ。実体が、体があるんだ。」
「僕には、さっぱり分かりません。」
「いまの、楽器を捨てた男に話をしよう。協力してもらう。それから、また池を調べよう。県警の科学捜査班の知り合いに話をした。実際に今度来てもらう。」
「署長は、納得なさっているのですか?」
「まあ、野々村さんに頼んで、特別な依頼を出してもらったよ。あの人は、自分が特別である事が、好きだからね。実際これは微妙な問題だ。松村家関係の問題は、非常に繊細なんだ。何しろ政府は、あそこの協力がないと困るからね。だからおおっぴらには出来ない。下手したら自分の首を絞めてしまう。まあ今回も、表向きは交通事故関係の捜査だからね。実際おれは、そろそろ身体が危ないかもしれない。松村家がその気になれば、おれなんかすぐ終わりさ。まあ、辞表はいつも持っているから。」
「池の管理組合が、黙っているでしょうか。」
「まあ、今のところ、おれを玩具にしているんだろう。親分がね。」
「はあ、親分って?」
「ある国の王女様さ。まあ、そのくらいにしよう。君まで深入りする必要はない。」
「したいですね。深入り。ぼくはいつも圏外だし。ねえ君。そうじゃない?」
副署長は、班長を面白そうに眺めた。
緒方之介は参考人として任意に警察に呼ばれた。
そこには、どことなく専務に通じる雰囲気のある、あの副所長がいた。
「で、君に聞きたいのは、楽器を池に放り込んだ時の、出来るだけ詳しい状況なのです。なにかありませんでしたか? 変わったことが。」
「変わったことと言われても。別に。」
「ふうん。」
副署長は、同席している班長を、ちらっと見たうえで言った。
「君は、言いにくいだろうから、こちらから先に言ってあげよう。ここにいる私と、この班長さんはね、実際に見て、体験しているのさ。あの池の『女神様』をね。」
「え?」
「だから、何か変なものを見たりしていたとしても、気にしなくていい。君がおかしいわけじゃない。我々は、確かに警察組織全体の中では異端者で、主流派ではないが、あの池や、他にもある、異常な現象が起こる場所について調査している。真面目にね。しかも、前回あった事件で、警察内の目撃者が爆発的に増えたため、ここの警察ではむしろ主流派になりそうな勢いなんだ。だからもし君が経験したのなら、協力してほしんだ。」
「あとで、面倒な事になりませんか。」
「ううん。正直言って、何もないとは言いかねる。確かに女神様に出会った後、不思議な出来事に会っている人はいるからね。ただ、そうなってむしろ良かったという人の方が多いようだ。後から不幸な目に会ったという証言はほとんど聞かない。多少個人差はあるけれど。」
「でも、専務はそうなっています。」
「そこだよ。こういう事態は初めてなんだ。まあ、伝説は別だよ。私は『不思議が池』関係の伝説もいろいろ調べてきている。その中には、池の女神に食べられたとか、子供を鬼にされたなどと言うものも残っている事は確かだ。しかも、私が担当しだしてから五年、実際、似たような事が起こっているが、結局なんだかよくわからないが、丸く収まってしまうんだ。悲劇にならない。今回は異例な事態になった。それだけに、君が何か体験したのなら、話してほしいんだ。君の為にもね。心配事があるなら、我々が可能な限り保護しよう。まず斧。君は斧を受け取ったかね。」
男は首を横に振った。
「いえ、受け取りませんでした。返しました。事情は、こうだったのです。でも、専務を責めないでください。」
男はいきさつを話した。
「なるほど。それで、話が戻るけれど、もともとそのフルートの由来は何時だったの?」
「中学生から、フルートは吹いていました。二万ドリムの楽器で。でも、高校に上がった後、父が買ってくれたのです。あの楽器を。八十万くらいはしたと思いますが。高校時代は、決して上手くはなかったのですが、卒業前くらいから急に上達したような気がします。自分で言うのもなんですが、それまで、とっても、よそよそしかった楽器が、やっと自分に馴染んできたというか。一体化してきたというか。それ以来、音には自信が持てるようになったのです。指は、まあ素人としては、まあまあ位ですが。本当は音大にも行きたかったのですが、実は僕の父は、東京でそれなりの工場を経営していましたが、楽器を買った後から経営状態が急激に悪化しました。いろいろやりくりし、国の雇用調整助成金を受けたりしながら、何とかやってきました。しかし僕は、経営者向きじゃやないということで、跡取りは兄が受け持ち、僕は高校出た後、大学はあきらめて、アルバイトをしながら、楽器を続けていましたが、五年前に、この街に来て、同じようにアルバイトしながら、夜は音楽して暮らしてました。でも、彼女と出会って、結婚して、子供が出来て、このままではだめだと思い始めて、ハローワークで求人を見て、なんだか音楽好きの担当者の人・・・ひどく変な人でしたが、髪の毛もじゃもじゃの眼鏡かけた、本当に衰退したような人。シベリウスが大好きとか言ってましたが。あの人に紹介状作ってもらって、専務さんと出会ったのです。その恐ろしいほどの、鬼のような経営哲学に衝撃を受けました。僕も一応経営者の息子ですから、なんだかお互い理解できるところもあって。あとは、お話したとおりです。」
「なるほど。おれと同じころ来たわけだ。この町にね。もうひとつ聞くが、誰か他に、その楽器に纏わってるような人はいないですか。なんでもいい。高校生時代とか、その後でも。」
「いえ、考えてみたけれど、特には、いません。多分ですが。友人も少なく、恋人もまったくいなかった僕ですから。」
「そうですか。実は君に頼みがある。明日の夜中に、『不思議が池』に一緒に行って欲しいんだ。楽器を返してもらいに。専務さんを事故に会わせたのが、あの池の女神様である可能性は高い。どうかねえ、やはり嫌かね。」
「いえ、こうなった事の元々の引き金は、僕の手にあった感じですから。行きます。会社には・・・。」
「大丈夫だよ、こちらからも依頼するから心配はいらない。警察の車を出すから、それに乗って行ってください。もしかしたら、少しショックを受ける可能性があるよ。いいね?」
「はい。わかりました。」
幸子さんは、天井からこの様子を見ていた。
「まあああ、え、私が事故の犯人? なんという、いい加減な事を。許せません。断じて。それに、あの子可哀そう。全然眼中になしって感じね。いい気なものね。どうやって自分が上手くなったつもりかしら。副署長も許すまじ。これはもう、神の恐ろしさを身に染みさせなくては。でも、良い男ね。これまでは、夜しか見なかったし。こうして見ると。ううん・・・・ちょっと、これって、恋? いえいえ、とりあえず帰りましょう。もう、お饅頭も届いているでしょうし。わたし、食べ過ぎかしら。少し変ね。」
家に帰った幸子さんは、女王様にメールで報告を出した。
すると、すぐに返事が来た。
『今回は、池の施設を隠しません。というか、ちょっと過激な悪魔のお城にしてみましょう。面白そうだからね。侵入者があった場合は、人質に取りましょう。あらこれって、あなたにいつも言ってる事とちがうかな。まあ、私も人間じゃないから、おあいこよ。』
「まあ、女王様ったら、都合のいい時は人ではなくなるのね。いえいえ、肝心な事がないわ。あの娘、どうするの。」
『追伸。いい、あの娘は、ほっておきなさい。ま、といっても幸子さんには無理よね。楽器は、こうなったら彼にお返しなさい。あとは、成り行きね。彼女が、『永遠の都』に行きたくなったら、連れて帰ってあげるからね。それと、ちょっとだけ、細工してあげるわ。じゃね。』
「じゃね。と。ううん。いつもとは言え、いい加減な女王様。結局、全部私がしなくちゃならないってわけよ。やれやれ。」
幸子さんは、お饅頭を頬張りながら言った。
次の日の夜中。
舞台は整った。副署長率いる、警察『I・K・E』班は早くから配置についていた。
幸子さんは、ゆったりと池の中から眺めていた。
「なにやら、今回はちょっと様子が違うなあ。変な機械が来てますね。あれは何? 神様感知器かしら。まさかね。それとも幽霊探知機?まあ、ネットには出ていたけれど。女王様は体で幽霊を感じるらしい。わたし神様だけど感じないし。」
「観測開始します。」
副署長は指示した。
「よし、慎重にやれよ。」
あたりは真っ暗闇だ。ところどころに警察の設置した照明がちらついている。ボートが出されて、ライトを照らしながらゆっくりと廻っている。県警から来てもらった専門家が言った。
「もちろんです。あれ、?」
「どうした。」
「いえ、もう、反応してます。」
「は?」
「何かありますね。池の底、大きいですよ。ボートをずっとまわして行きます。少し時間をください。こんな反応、これまで見過ごしてたの?」
「いや、慎重に観測してきたつもりだ。」
「今夜は大当たりかもしれませんね。」
班長が言った。
「そんな、宝くじのようなものかね?」
「これはすごいですねえ。なんで、こんな池の中にあるのだろう。巨大な建物のような、西洋のお城のような構造物があるようです。輪郭を示してみましょう。」
パソコンの画面には、異様な形態が表示された。
「何だこれは。」
副署長が唸った。
班長がつぶやく。
「まるで、ドラキュラの城のような。なにか潜在意識に揺さぶりをかける画像ですね。でも、半分以上は池の底の中という感じだ。」
「まあ、あくまで反応だから、実体は見に行かなくては分からないが。いやあ、でもこれはすごいねえ。見たことないですね。とても挑発的だ。」
「罠かな。」
「確かに、これまでとは違いますね。」
「もうちょっと分析します。」
「頼む。それから、おい潜水の用意してくれ。おれが潜る。あと二人頼む。」
「副署長がですかあ」
「おれは、海上保全省仕込みだ。プロだぞ。」
「なら、早く潜っていればよいものを。いや、失礼しました。はは、どうぞどうぞ。」
班長が言った。実は班長は副署長より年上で、しかも先輩に当たる。悪気はないが、時々こういう悪さをするのだった。
「まあ、タイミングというものがありますよ。先輩。」
軽く受け流して、相手の顔も立てる。こういうところは副署長の良いところだ。しかし、この人も上層部にやや反抗的なところがあって、なかなか田舎からの昇進はできないでいる。『人口衛星亜幹部』と言われている人だ。下積みばかりの班長とは、なぜかウマが合う。
時はすぐに流れる。夜半を廻ったころ、警察の車に乗った、あの主人公の男が現れた。なんと、奥さんと子供が一緒に乗っている。
彼らは警官に案内されて、特等席に座った。気休めではあるが、暖房も用意されている。
さらにもう一台の車が来た。そこには、専務の奥さまが乗っていたのだ。
こうして、いつものように役者はそろった。
「来たわね。ううん。困ったなあ。楽器は返してあげるとして、あと、どうなるの。彼女は、何時起こす? まあ、でもほっとけないわ。金庫を開けましょう。よいしょ。で、楽器の蓋を開いて、ほら『目覚めよ愛』。どうなるの?」
「ああ、よく寝た。あら、幸子様。お呼びですか。」
「緊張感のない登場ね。ほら、彼、来たわよ。」
大鏡の中に、あの男が映し出された。
「ああ、彼、彼ですね。キャー来て下さったのね。嬉しい、愛、嬉しいわ。」
「あなた、『愛』さんなのね。」
「はい、あ、すみません。名前も言ってなかった。『愛子』です。」
「そう、愛子さん、良いお名前ね。女の子らしいわ。」
「はい。でも、そう言う考えは、実は、あまり好きではないです。でも、良かったああ。来てくれたんだ。もう駄目かと思っていたの。」
「あの、奥さんわかる。ちょっとだけ中年以上の。」
「ええ、どなたですか?」
「専務さんの奥さんだって。」
「まあ、そうですか。それは、それは。」
「あなた、専務さんの車、事故させたの?」
愛子は少し黙っていたが、声をこわばらせて言った。
「あの男が悪いの。彼を、変えてしまった男よ。悪魔よ、鬼よ。許せないわ。死ななかったの?生きてるの?」
「そう、状態は良くないようだけれど。生きてはいる。もう仕事は無理でしょうね。」
「それは、何よりです。うれしいわ。彼を取り戻せる。」
「まあ、同感ではありますが。でも、ほら、見て、彼の奥さんと、子供さんよ。」
愛子は、鏡の中で彼に寄り添っている妻と、無邪気に、玩具のパトカーに夢中になっている子供を見た。しかし、さすがに少し眠そうになってきている。もうすぐに寝てしまうだろう。その方が良いと、幸子さんは思った。
「でも、私は、もうかなりの間、ずっと一緒に過ごしておりました。何の問題もございません。」
「あなた、この先どうするおつもりなの?」
幸子さんは、女王様のように聞いた。
「どうする? 別に。彼は、ずっと私と共にあります。奥さんがいても、子供さんがいても、関係はありません。幽霊ですもの。」
「一生、取り憑くの?」
「ええ、もちろん。そうして、彼とともに天国に行くの。永遠に二人で幸せになるの。」
「奥さんたちは?」
「死んだあとは知りませんわ。死ねば、自由です。彼は私を選びます。確実です。何も問題はありませんから。」
「すごい自信ねえ。」
『さあ、これは困った。あの男の真実を知れば、荒れ狂いそうだなあ。このタイプの女の子は。』
「福署長。潜る準備はOKですよ。それから、こんなアルバムがいつの間にか机に置いてありました。まったく何処から来たのか。さっきまでなかったのに。」
班長が言った。
「ふうん。『総合学園高校”愛の苑”』。いやなんともすごい校名だ。卒業アルバムか。いやまてよ、ちょっと索引を。あるある、あいつの名前だ。ほら見ろ。三年C組か。こいつだ。まだあまり変わらない。そうだ、楽器だ。吹奏楽部・・・いる。このフルート抱えてる子。そうだろう。いやあ、べっとりくっついている女子がいるな。ここでも隣にいる。こっちも。おお、ここでも、いつも隣にいる。訳ありか?ほら、あいつに見せてやれ。それとも、あいつが持ってきたのかな。」
班長が、そのアルバムを彼に見せた。
「あなたのですか?」
「いいえ、違います。へえ、こんなもの、もう家にはないですよ。実家にあるかもしれないけれど。ああ、確かに懐かしいですね。」
「この女の子は? いつも隣にいる。」
「ああ、この子は、誰だっけ? そう言えば、一年下に、いつも勝手にくっついてくる子がいて。まあ、何というか、特に気にはしていなかったのですが。名前は何だったかなあ。」
「まあ、せっかくだから、見ていてください。十分後に始めます。いいですね。」
彼の緊張は一気に吹きあがった。警察から、やることは言われていた。
難しいことではない。しかし、先日のような勇気はどこかに行ってしまっていた。
「あいつ、気は弱いんですね。大丈夫かな。」
「まあ、普段ステージに立ってたんだろう。そういう人間は、いざとなったら、やるさ。さておれはスタンバイするぞ。」
「ええ。了解。」
副署長は、ボートに乗って、ゆっくりと池の中に乗り入れて行った。
時間が来た。警官に促されて、彼は崖の淵に立った。奥さんが心配そうに見守っている。子供はもう、すやすや眠っていた。
「どうぞ、始めて。」
後ろから彼の体を支えながら、警官が言った。
「ぶふん。ああ、池の女神さま、楽器を受け取りに来ました。来ました。です。」
彼は、拡声器からどなった。
それは、池の中の警察官や副署長にも聞こえた。
「よし、それでいいぞ。よくやった。」
副署長は呟いた。
「あとは、出てこい女神め。正体見てやるぞ。」
「よし、行くわよ。こうなりゃ、やけだ。女の底力、見せてあげるわ。ほら、あなたも来なさい。ただし、いいわね、冷静に、ね。わたくしが良いと言うまで、黙ってなさいね。」
愛子の幽霊は、先程は強がったものの、本心は、相当不安だったようだ。ガタガタ震えている。
「あなたが震えてどうするの。震えあがるのは、あの男の方よ。ほら、しっかりしなさい。ついてらっしゃい。」
池の中から、赤い閃光が走った。そうして水柱が上がった。
「よし、きたぞ。それ行け。」
副所長たちは、ボートから池に飛び込んだ。
深夜だ。視界はない。ほとんど無茶だが、副所長には考えるところがあった。
『あんな光が出るんだ。きっと出所がある。夜の方が分かりやすいはずだ。」
案の定、赤い光が池の底からサーチライトのように立ち昇ってくる。かなり強い光だ。
副署長は、ライトを振って合図した。『下に行くぞ』
幸子さんは、大きな姿で池の面に現れた。手にはあの楽器を握っている。
「よく来ましたね 褒めて差し上げましょう。では、楽器をお返ししましょう。」
「ちょっと待って。専務をあんな目にあわせたのは、君なの?」
男はずばりと言った。
「やっぱし、あいつかなり意地っ張りだ。」
班長が言った。
「しかし、いいぞ、時間を稼いでくれ。」
幸子さんも、これは予想していた。
「そうお思いなの?」
「他に誰がいる。あなたしかない。神様が、あんな事していいのか。」
「いいのよ。いい、私は、神様とはいっても、鬼神よ。見せてあげる。私の本当の姿を。」
と言ってみたものの、幸子さんは少し不安だった。最近の人間は、鬼の姿を見てもあまり怖がらなくなった。世の中の刺激が強すぎるからだ。あれだけ毎日怖い物を見せられたら、こうなっても仕方がない。
鬼より怖い物が世の中には満載で、すでに積載オーバーになっている。
ともあれ、幸子さんは、さらに巨大な鬼となった。これが怪獣映画見すぎの現代人には、かえってまずいということには、幸子さんはまだ気が付いていなかった。案の定男は言った。
「なんだ、鬼ですか。目新しくもない。いいですか、僕は、犯人はあなたかと、聞いているのです。」
班長は感心した
。
「あいつ、思ったより根性がある。『I・K・E』班にぴったりだ。スカウトしたいものだ。」
「まあ、よく言ったわね。よかろう。わしは、人間が大好物じゃ。お前を食ってやろう。自分がいかに愚かな男か、わしの腹の中でよく考えてみい。誰がお前にフルートを教えたのじゃ。どうして、下手くそだったお前が、今のように演奏出来るようになったのじゃ。言うてみい。」
「それは、僕が頑張ったからさ。別に先生に付いた事はないからね。」
「むむむ、愚かな人間じゃ。では、本当に食ってやる。」
幸子さんは、鬼の本性丸出しで、男を掴んだ。
そうして、大きな牙の生えた口に、男を運んで行った。
幸子さんは、この際、本当に食べてやろうと思っていたのだ。いや、飲み込んでやろうと。
幸子さんのおなかの中は、いくつかの別世界につながっている。人間の知らない、あの世に。別名『地獄』にも。
最も簡単で、妥当な解決策だ。ちょっと短絡的なのが、幸子さんの欠点でもあったのだが、実をいうと、この『地獄』からは帰ってくることが出来る。いわば『疑似地獄』なのだった。これも女王様の発明になるものだったが。
しかし、耐えかねた男の妻が走り出た。
「神様、どうかお鎮まりください。夫は何か、あなたのお気に障ることをしでかしたのでしょう。確かに、この人は少し一途すぎて、融通が利きません。でもあたくしたちにとっては、かけがえのない人です。どうか、このあたしに免じてお許しください。何かお望みの事があれば、あたしが行います。かわりに食べられてもいいです。でも、できれば、この子の為にお許しください。学のほとんどない、あたしたちですが、それでも懸命に、一生懸命生きております。どうか、分かってください。女神さま。お願い。ほら、頭下げて。」
びっくりして目覚めた子供の頭を、彼女は必死に抑えつける。子供は叫び声をあげて泣いた。
幸子さんは、これが一番苦手だった。
彼女は、ひゅーーっと小さくなった。
すると、幸子さんの横に、別の女が現れた。愛子さんの幽霊だった。
「私の事、分かりますか。先輩。勿論、覚えてますよね。だって、ずっと一緒にいたのよ。私、あなたといつも一緒にフルートを吹いていました。そう、死んでからも。ずっと。分からないなんて言わないでください。私、死んでしまいます。暴れます。分かって先輩。」
彼は、じっと彼女を見つめていた。先程見たアルバム。
そうだ、思いだした、あの頃の思い出を。
いつも練習で、何かと世話を焼いてきていた女子がいた。
少し、うっとおしかったが、いやじゃなかった。
美人とは言えないが、なんだかいつも太陽のように明るかった。
譜面台に楽譜を立てて、二人で練習曲をやった。失敗すると、彼女は笑いが止まらなくなった。
フルートは、ピアノやバイオリンと違って、笑いながら演奏出来ない。話しながらもできない。
いつまでも、二人で笑っていると、先生から叱られた。
でも、それは、楽しい日々だった。
あの、校舎に隅に差し込む、明るい日の光。葉っぱの形になって揺れ動く太陽の光。
彼女の笑い声。
そうだ、愛ちゃんだ。いつの間にか居なくなった愛ちゃん。病気になった彼女を、一度だけ見舞いに行った事があったが、それが彼女を見た最後だった。
でも、長い間、すっかり忘れてしまっていた。
「思いだした。愛ちゃんだ。」
彼は、言った。
「ああ、よかった。ありがとう。先輩。よかった。よかった・・・・・。」
愛子は、何かを諦めたかのように微笑んで、すうっと、消えていった。
「あら、いなくなっちゃった。まあ、簡単。」
幸子さんは、一気に気が抜けてしまった。
男を池の淵の崖に戻すと、彼の手に、楽器を置いた。
「大事にしなさい。愛子さんの魂が宿っていたの。専務さんを襲ったのは、愛子さんだけれど、許してあげて。いいわね。もう、ここには来ないで。斧もあげる。さようなら。」
そう言うと、幸子さんも消えていった。
事態の成り行きを、固唾をのんで見ていた警官たちは、しばらく、何故か動けずにいた。
幸子さんが消えて、やっと呪縛が解けた後、専務の奥さんが班長のところに歩み寄って言った。
「どうやら、うちの人を事故に会わせたのは、あの後から出た女の子さんだったようね。池の女神さまではなくて。あなたがたの見込み違いね。誤認逮捕にならなくて、よろしかったじゃないの。」
副所長たちは、光の出所を見つけた。
そこには、別に大きな建物があるわけではなかった。しかし、これまでまったく見つけられていなかった、小さな、不思議な工作物があった。まるで、ミニチュアの建物だ。実物の十分の一という位か。でも広い。拡大して実寸にしたら、これは大きい。コンピューターの画面で見た、あの城のような形とよく似ている。
でも、中には電燈がちゃんと灯っている。庭には街灯が点いている。なんだか変な漏斗のような物がある。その下には、工場のようなものが埋まっているようだった。
よく探すと、指先でちょこっと開けられるようなドアがある。上下にひっぱったが、ドアも建物自体もびくともしなかった。
副署長は、取っ手を指先でつまんで、今度はそっと引いてみた。
ドアは開いた。
彼らは、その中に吸い込まれていってしまった。
第3話・・・・・・おしまい
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『写真の旅コーナー』
香川県観音寺
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