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「明日こそね、君の願いを叶えようと思う」
慣れないなりにキーボードを打っていた両手が、思わず固まる。カチカチと壁掛け時計の音が聞こえてくる静寂に、ブルーライトと向き合ったまま、僕は彼女が本気なんだと知る。
西日が差し込むワンルームは僕にとって癒しの象徴だった。先程まで彼女(彼かもしれない)が蒸らしていた紅茶が、ことりとローテーブルに二つ置かれた。優しく鋭いアッサムの香りに僕は我慢できず手を伸ばす。百均の白いソーサーにはミルクが二つ添えられていた。しかし今は入れる手間さえ惜しんで、落ち着かない気持ちを紅茶とともにぐっと一気に飲み下す。
「おお、いい飲みっぷりだね」
「……本気か」
「願ったり叶ったりだろう。君はしょっちゅう、僕にいつ願いを叶えてくれるのか、聞いてきたじゃないか」
彼女の口角が少しだけ持ち上がる。作り笑いばかりする彼女の本当の笑顔の見抜き方は口角の動きただ一つだ。人の本当の笑顔は口角と頬の筋肉に出るという論文を最近見かけた。
とはいえそんなに聞いていただろうかと改めて記憶を探る。いや、大して聞いていなかったはずだ、少なくとも最初の頃と比べたら。
ノートパソコンを閉じてカップとソーサーをシンクへ運ぶ。その様子さえ彼女は観察するように眺めていた。
「決まってなかったのかい?」
「決められなくなった」
ぽつ、ぽつ、と緩くなった蛇口から漏れる水滴を数えて、どうにか平静を保つ。明日じゃダメだろうかとどうにか期日の延長を問えば、十八番の作り笑いをさせて彼女はダメだと答えた。かつての彼女はここまで頑固ではなかったはずだ。一体誰に似たのだろう。僕であることは明白だったが、ここは敢えて知らないフリをする。
「今決めてくれよ。明日には僕はいなくなるんだから」
動物の観察でもするような目が鬱陶しかった。
改めてローテーブルの前のソファに座り、彼女を見つめ、考える。僕はお金が好きだ。誰になんと言われようと好きなんだから仕方ない。お金さえあれば生きることに困らない。経済の余裕は精神の余裕、とはよく言ったものだ。だから僕は彼女のその有り余る財産が欲しかった。
ぎゅっと心臓が縮み上がる。不可侵のワンルームで、僕はその不可侵を犯そうとしているのだ。
「君の、名前と性別を教えてくれ」
彼女の部屋に上がっておきながら、僕は彼女のことを何も知らない。
眠たそうな目を見開いた彼女は、顔を覆ってくくくと笑った。なんだかバツが悪くて目を逸らす。しかし引くわけにもいかなかった。笑い転げるようにベッドまで移動した彼女は品悪くベッドに片膝を立てる。そうして食い入るように窓の向こうの夕焼けを見つめた。
「この部屋にはなんでもあるね」
そうだ、この部屋は一室しかないわりになんでも揃っている。
「キッチンとベッドは始めからあった。でもそれだけだ。白いカップも、銀の食器も、人間らしい服も、靴も。全部君が揃えてくれた」
そうして貴方は悲しそうに目を閉じる。
「約束だ。普通の暮らしをくれた君に、願いを叶えるという祝福を贈りたい」
緩和ケア病棟の一室にて。偶然出会った彼女の寿命は、目前まで迫っている。
「呪いなんてあげたくないんだよ」
笑わないまま目を細めた。
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