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お医者さんの話では、「こころに深い傷があったら、こうなるんだよ。」と言ってくれたのを思い出した。
この気分は嫌だ。なんというか、こういうときは、頭がボーっとし、なにも考えることが出来なくなる。
いつか、おとぎ話のアニメで見たやつで、お姫さまは悪い魔女に魔法をかけられて、なにも考えられず、だまされて、その魔法使いの男と結婚させられそうになった話を思い出した。
あのお姫様の顔―瞬きはせず、視点の定まらない目つきーは、幼いヒカリには強烈なインパクトだった。
―あのお姫様もこんな感じだったのかな。
だが不思議と、これはいつもすぐに収まる。なにもなかったかのように頭の中から消える。
となると、思うことはいつも一つ。
―もう考えてもしょうがないな。
ヒカリは寝間着に着替えると、トクトクと階段を下りて行く。
下のテーブルには、もうすでに夕飯が用意されていた。
テーブルに腰掛け、足をかけようとしたが、床につかない。ふと、まだ自分の背丈が小さいことを思い出した。
―なんで忘れたんだろう。
そうだ。いつも、椅子で足をバタつかせたテレビを見て、お母さんと話をしていたではないか。
少し暗いみたい。電灯の光がいつもと違う気がした。
「ヒ~カ~リ~♡」
と、向こうから母の声がした。向こうと言っても、今座っているテーブルと、台所の間には、子供の背丈くらいの高さの食器棚しかないのだが。
「今日は、ま~ぼ~どうふと、ステーキ。 仕事が早く終わったから、今日は奮発したよ。」
と、みてみてと言わんばかりに料理を軽やかにテーブルに置いていく。
―いつもとおんなじ
ヒカリは、なんだが、一人ぼっちな気分を感じていた。
そんなヒカリを横に、母は小さなお椀に、今日作った麻婆豆腐を入れている。
そのお椀は黒くピカピカと光っており、それが、たしか、うるしというのが塗られているからだと、以前誰かに教えてもらった物であり、手のひらに載せられるくらい、小さい。
お椀は全部で4つあり、それぞれ、麻婆豆腐、みそ汁、ご飯、野菜が小さく切られて入れられていく。
料理を入れ、これまた小さい湯呑に緑茶が入れられた。
ヒカリはじっと見つつ、これがなにか、すぐに分かった。
「おいで。ヒカリもお父さんに挨拶しよう。」
その声は、朗らかであったが、どこか寂しさを感じさせるものであった。
瑠美がそう言うと、ヒカリは椅子からピンと立ち、瑠美からせかされるように背中を押されながら、今いるダイニングのとなりにある和室に向かった。
テクテクと歩き、和室の襖まで歩くと、母が先ほどの料理を持ってくる様子を見ながら、襖を開けた。
襖の向こうは、茶色のフローティングの床のリビングとは対照的に、6畳の畳が敷かれた和室であった、そこには、膝の高さくらいの引き出しの上にはテレビが置いてあり、リビングに置いてあるものより小さいものだ。
引き出しの隣には押し入れがあり、その隣には仏壇が置いてある。
ここは、母の寝室なのだ。
「さあ、お父さんに今日の挨拶。」
と、背中をポンと押され、仏壇の前に敷かれた座布団に膝を曲げてお尻をゆっくりつけた。
瑠美も隣に座り、いつのまに用意したいのか、火のついた線香を香炉に立てる。
白い線となった線香の煙は、まるで仏壇と二人を隔てる壁のようにゆらゆらとゆっくり天井まであがり、広がる。
「さあ、ヒカリが、今日も無事に帰ってたわよ。」
瑠美は、懐かしものを見るように、位牌の前に立てらえた写真の男に微笑む。
写真の男―ヒカリの父―は、微笑みを浮かべ、二人を見つめていた。
―お父さん、今日は色々、あったよ。
そう思いながら、手を合わせる。
―お父さんは、どうだった? ヒカリは大丈夫だよ。
そう思っても、本人には届かないことは頭では分かっているつもりだ。
ここに入る時―特に、母がいるときは、入りにくい。
なんだってここは、父の部屋でもあるからだ。
母と同様、ヒカリは父のことも大好きだった。特に、自分の組んだ足に座ったときは、安心感、温かい空気が彼女の周りを包みこんだ。
だが、この部屋に入ったら、そのときの温もりを思い出してしまう。
それが、母に悪いような気がしてならないのだ。
だって、今も、母は父に向って微笑んでいるが、目が電灯の光に照らされて。涙目のように見える。今にも泣きそうなのだ。
ヒカリは、子供ながらの直感で、こういう時には言葉はかけないほうがいい。きっと、それがいい。
そう思うようにしてきた。
お父さんのことを色々聞きたい時期も彼女にはあった。周りの友達は、自分の両親について色々話すことがあるのだが、彼女はその輪の中に入ることが出来ず、少し寂しい思いをしてきた。だが、お父さんのことを聞いてみようとしても、いつも隣で線香に火をつける母の顔を見れば、切り出すことが出来なかった。
そんな状態がもう数年も続き、結局お父さんのことを、母に色々聞くことはできなかった。
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