永遠を舐めて死ぬ

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  「ついてない」  診断されてこぼれたのはただその一言に尽きた。  昔からそうだ。幸が薄い。月子、なんてなんだか日本酒の名前とも料亭の女将とも似た縁起の良さそうな名前を持て(はや)されたのは実際幼稚園の頃。つきちゃん、つっきー、運の尽き。いつぞやからそう自分のなかで皮肉めかすほど、私の運は日に日に底をついていった。  大学を卒業後、学生時代知り合った一つ年上の相手と結婚、伴侶を得て、十年平穏な暮らしを続けてきた。結婚二年目には子どもを得てやさしい夫と最愛の息子の三人家族。  その瞬間で人生の運を使い果たした。人並みの幸せを得ようなどとそういう邪な考えがそもそも浅はかだったのかもしれない。私が抱えるには大層だった。だから結婚十年目の記念日の日に夫が離婚届を泣きながら私に突き出して家を出て、それから3年が経った頃一人息子が非行に走り同級生の鳩尾を包丁で刺したのだろう。  夫は姿を眩まし、今はどこにいるかわからない。  息子は少年法に守られたけれど、教育方針や家庭環境を問題視され夫が残した念願の一軒家では肩身が狭く、いつぞやから壁に知らない落書きや退去の貼り紙を付けられた。  月木の収集を問わず生ゴミがうちの前に並べられカラスが荒らし、三年は耐えたが息子が17になる頃髪を金髪に染めて家を出て、やっぱり今も居所がわからない。  最近似たような名前の男がニュースになっていたのを目にしたような気がする。確か恋人の親を刺したとか、その頃には随分視覚のピントが合わなくて視野狭窄にも苛まされていて、見たくない物を見たときにこの病気が救いになると皮肉にも笑ってみたりした。  一軒家は売りに出して、クリーニング屋の受付とスーパーの食レジでパートに入っていたけれどこの調子ではもう続けられそうにない。退職願を出して頭を下げたら店長は「そっかおつかれ」と笑っていた。最近新人の若い子が入ってご執心なんだそうだ。  いろんなことがトントン拍子で過ぎ去って全部に片がついた頃、それは診断結果を聞いてから二日後の夕方だった。  斜陽の射し込むアパートの一室、畳の上で手提げ鞄を下ろしてゆっくりと座り込む。  そうすると自然と、涙があふれ出た。不思議だ。視界が徐々に狭まっていくのを感じているのに、涙を流すその機能だけは今日も役割を果たしている。  視野が塞がる頃、この涙は流れなくなるのだろうか。
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