#012.NOAA

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 あれから何年がたったのだろう。気象予報士の試験に三度目で合格した私は、横浜にある天気予報を配信する会社へ転職した。  適性の違いから自らの限界を感じてしまい、自分の居場所を上手く見つけられずにいた前職から解放された喜びからか、私は業務に邁進した。  気がつけば社内でもそれなりの地位になり、最大手のクライアントを任される立場になっていた。代わりに髪の毛の色と肌の張りを、だいぶ失ってしまったが。 「お帰りなさいませ、部長」  外回りから帰った私の席に、部下兼秘書の女性がコーヒーを持ってきてくれた。彼女が私の席の前を動こうとしないので、疑問の視線を向ける。 「お嬢様が、執務室でお待ちです」  一人娘のノアは大学に進学し、私の後を追うように気象の勉強をしている。私の血を濃く受け継いだのか。娘も生まれつき、気温や湿度、気圧などを敏感に感じる体質の持ち主なのだ。  子供が生まれる前の夫婦間の取り決めに倣い、生まれた女の子は妻が名付けることとなった。妻が名付けた名前は「ノア」。奇遇にも、日本の気象庁にあたるアメリカの海洋大気庁、「NOAA」と同じ読み方なのである。  娘が気象の道へと進むのは、運命付けられていたことなのかもしれない。そんな娘が通う大学がこの会社の近くにあるため、たまに私のオフィスを訪れるのである。  娘が待つ執務室のドアを開いた私は絶句した。真っ白な長袖Tシャツに細いジーンズ……  若かりし頃、まだ趣味レベルで気象を勉強していた頃の記憶が蘇る。電子レンジが「チン」と音を立てて止まるように、私の記憶がある一瞬を指している。  育児と気象の本を購入した帰りに転んで足を怪我し、そこをたまたま通りかかって介抱してくれた少女。彼女の激励もあり、私は本気で気象の道を志すようになったのだ。  執務室のソファに座っている娘の姿が、あの日の少女そのままなのである。 「お帰り、パパ。今日ね、面白いことがあったの」  私は娘の向かい側に座り、彼女の言葉に耳を貸す。  フィールドワークのために東京の気象系企業を訪れた帰りに駅前で転んで足を怪我した青年を介抱したと言うのだ。  「気象」という目の前で実際に起こっている、またはこれから起こり得るであろう事象を生業としている私が、超常現象を認めるわけにはいかない。  しかし一方で科学が発達していない時代には、雷も人魂も、雨乞いの護摩でさえも超常現象として扱われていたことも否めない事実だ。  こんな奇跡が、あってもいいのかもしれない。  私は立ち上がり、階下を見下ろせる窓際へと移動する。その際に、左の足首がズキッと痛んだ。ような気がした。 「ママを呼んで、どこかで食事でもしようか」  初夏の陽射しの中。空の青、街路樹の緑、街の灰色と、どの景色にも映える赤い電車が、ビルの隙間をすり抜けて行くのが見えた。 (了)
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