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「あらららママずぶ濡れじゃない!ママまで風邪ひいちゃうよ!」と私の姿を見た園長先生が慌ててタオルを持ってきてくれる。
すみません傘が折れちゃって、と情けなく笑ってみせる。
「ちゃんと拭いてからで大丈夫だからね、悠くん今園長室で寝てるからちょっとくらいゆっくりしても大丈夫よ」
優しく声をかけられ、また涙が溢れそうになる。
すみません…と呟いてタオルで顔を隠す。雨が降ってないと泣いてるのがバレてしまうから。
でも顔を隠しても震える声は隠しきれない。先生は私が泣きそうなことに気づいたのか、「ねえ、悠くんが起きるまで先生の部屋で待ちましょうか」と微笑んだ。
目の前の机に温かいコーヒーが置かれる。ふわふわと立ち上る湯気を見ていると、張り詰めていた気分がゆっくりとほぐれる気がした。
「大丈夫?」と優しく先生が問いかける。
「すみません、なんかもう全然ダメで」と笑ってみせるが、口に出すともうダメだった。
「家でも悠はずっと泣いてるし、仕事じゃ全然うまくできないし離乳食も全然食べてくれないし寝かしつけもできなくて、なんで自分だけできないんだろうって、ずっと…」
堰を切ったように涙が溢れて止まらない。ごめんなさいこんなところで泣いちゃって、と無理矢理口角を上げる。
「あのね」と私の前に座った先生が私を見つめて口を開く。
「いいお母さん、ってなんだと思う?」と問う。
「いいお母さん…ですか?…ご飯を毎日作ったりとか、鞄を手作りしたりとか、行事には毎回参加するとか…?」と考え考え答える。
少し白髪の混じった頭を左右に振り、先生は言う。
「私はね、いいお母さんっていつも笑ってるお母さんだと思うの」
そう言われてはっとした。
「もちろんご飯とか作ったりするのもいいお母さんだと思うよ。でもそれでいっぱいいっぱいになってお母さんがいつも怖い顔してる、ってなったら…それって幸せなのかしらね?」と微笑んだ。
「あなたはすごく頑張ってる。大丈夫よ。悠くんが泣くのはお母さんが大好きだからだし、自分の感情の主張ができるってことだから安心して。他の人と比べたってみんな違うんだから、比べられるわけがないわ」
ふふっと上品に笑い、先生は続ける。
「頑張るのは悪いことじゃないし良いことだけど、それでお母さんに余裕がなくなっちゃうのは本末転倒。あなたは十分頑張ってるんだから、他の人に追いつこうだとか考えるまでもないのよ。上手に手を抜いてね。それよりもね、今この時の悠くんに笑ってあげて。きっと大好きなお母さんが笑ってる方が悠くんも嬉しいよ」
「…そうです、よね」と私は頷く。頷いた瞬間に涙が頬を伝う。
先生がそっと手を伸ばしてタオルで私の涙を拭う。
「だからね、辛かったら誰だって頼って良いし、そのために私達保育士がいるんだから。あなたもあなた自身を認めてあげてね。」
「…ありがとうございます」と俯いたまま返事をする。
「子供を産んだからっていきなりママになれるわけじゃないからね…子供と2人で親子になっていけば良いのよ」
そう言われてすとんと腑に落ちた。そうか、私も悠もまだ親子1年生にもなっていないのだ。
「何かあったらいつでもおいで。コーヒーは他の人には内緒ね」と、いたずらっ子のように舌を出す先生に思わず笑ってしまう。
ようやく笑った、と先生は優しく微笑んだ。
ふぇ、と奥のベッドから悠の声がした。
「起きたみたいね」と言いつつ立ち上がった先生が悠を抱えて戻ってくる。
私を見つけ、必死に私の方に手を伸ばしてくる悠を見て「やっぱりママが一番だよねぇ」と先生が笑う。
熱で火照って汗ばんでいる悠をぎゅっと抱きしめると、少し甘い匂いがした。
「ああ、雨が上がったみたい。ほら」と、カーテンを開けた先生が窓際に立って手招きする。
窓の外には先程の雨など嘘のように、青空が広がっていた。
本当だ晴れてる、と微笑む私に、悠は「まんま」と笑ってちいさな手を伸ばした。その手をそっと握り返す。
私達もこれからゆっくり親子になっていこう。私たちのペースで。
私も母になり、あなたも私の子供になる。
きっと大丈夫。
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