母になる

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制服のブラウスのボタンを片手で留めつつ事務所に入ると「狭山さん遅刻ぅ?」と、パソコンのキーボードを叩く店長から声をかけられる。 あたふたとタイムカードを切り時刻を確認して、「大丈夫です、ギリギリ間に合いました」と返事をする。 「子供がいるとね、やっぱり大変だよね。まあね、でも遅刻はしないようにね」と店長はパソコンのモニターを見たまま言う。 大変だなんて少しも思っていないような口ぶりに少々イラッとしつつ、すみません気をつけますと返し、走って店内に出る。 某チェーン店のカフェに勤め始めたのは最近のことだ。アルバイトから社員登用あり、という条件に飛びついて応募した。 悠が生まれるまでもアルバイトはしていたのだが、産休と育休を取りたいと言うとアルバイトには無理だと言われ仕方なく辞めた。 悠の父親となる男は、悠ができたことを知った途端に行方をくらました。男なんて所詮そんなもんだろう。元々ヒモのように働きもせず私の家に入り浸っていたのだから当然と言えば当然だ。 実家に子供ができたことと相手の男は逃げたことを電話で伝えると、そんなクズの子供なんか堕ろせと罵声を浴びせられた。こんな奴から私は生まれてきたのか、と思いうんざりして電話を切ってからは連絡をとっていない。元々折り合いも悪く、高校を卒業してからは逃げるように地元を離れた。 就職できれば良かったのだがなかなか見つからず、アルバイトで食い繋いでいるうちに悠ができた。 誰がなんと言おうと産もう。絶対にこの子を幸せにする。そう決めて一人で着々と準備を進めた。 貯金はないこともなかったが子供を産むとなると心許ないので、出産前から市や病院に相談し、保育園が決まって仕事を始めるまでは生活保護を受けることができた。 いつだって崖っぷちを走っている気分だ。金銭的にも精神的にも。 気を抜いたら落ちてしまう。どこへ?もっともっと暗くて孤独な場所へ。 ふにゃふにゃで柔らかくて小さい生まれたての悠を見た時から、私がしっかりしなくては、という思いは一層強くなった。彼を孤独な場所に落としてはいけない。 せめて収入の安定した正社員にならないと。 だが、そんな思いとは裏腹に何をやってもうまくいかない。
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