“運命の人”

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 ずず。うん、普通だ。  静かな昼下がり。僕はカフェで一人コーヒーを啜っていた。天気はそこそこ。快晴とはいかないまでも曇ってはいない。綺麗な円に一本線を引いて80点になってしまったような空だ。とはいえ、僕は100点より80点そこらのほうが好きだ。どういうことか分かるだろうか?  そう、僕の頭は今からっぽということだ。ずず。  しかしながらそこで、緩やかに流れていた僕の平和は突如として脅かされることになる。向かいの席に見知らぬ女性が腰掛けたのだ。怪訝な視線を手渡ししてみると、睫毛の長い美人が造形美の暴力で殴り返してきた。反射的に顔を逸らしてしまう。  そして少ししてから思い直し、今度はその顔を見つめてみる。目の前の美しい彫刻と握手したことはあっただろうか? 記憶を引っ搔き回しても心当たりはない。人の顔を覚えるのは苦手ではなかったはずだ。そうなると、彼女は初対面で挨拶もなしに相席しているということになる。  いや、それは少々失礼ではないか。いくら美人だからって。いくら顔が良いからって横暴じゃあないか。僕の顔はそこまで酷いという訳でないが、どちらかと言えば神が手を滑らせて彫刻刀をがりっとやっちゃった人間の味方である。瞳に理不尽な正義を燃やし、キィッと突き付けた敵意は長い睫毛に巻かれて萎れていってしまった。僕は無力だった。結局のところ、僕は典型的日本人気質を発動して泣き寝入りするしかない。僕の意識はもう一度コーヒーへ戻った。ずずずず。あんま美味しくない。角砂糖を沈めた。  傾いたマグカップの先っぽでそれとなく観察してみる。彼女は席に着いてからしきりに時計を気にして、鞄を漁り、ときたまこちらを見ては目が合って微笑みかけてくる。僕は目を逸らす。やっぱり知らない女性だ。  そこでようやく、僕の脳は『席を移る』という選択肢の製造に成功した。同時にベルトコンベアには『話しかける』という案が並べられたが、どうやらバイトの人が弾いてしまったようだ。彼の時給を上げるように上司に掛け合ってみなければならないな。週給をシュークリームに上げなくては。 「貴方は運命の人です。結婚するしかありません」  おっと、工場が止まってしまった。聴神経が異常を検知したようだ。どれどれ、……結婚だって?  僕は目の前に置かれた婚姻届と女性の顔を見比べる。婚姻届って初めて見たなぁっといやいや、そんな場合じゃない。なぜ僕は結婚を申し込まれているんだろう? 初対面の女性に、いや容姿端麗で初対面の女性に。訳が分からない。  もしかして、僕が忘れているだけでこの女性とは親密な関係なのだろうか? それとも僕の中にはハイドが入っていて勝手に女を作りやがりましたなのか? ただでさえイマジナリーフレンドとのお喋りで忙しいのに多重人格だって? そう思わないかい? ……返事がない? あ、そうか。そんなものはいなかっな。  震える手がマグカップを引っ掴む。ずずずずずず。甘っ。いやでも幾ばくか冷静になった。  そう、冷静だ。冷静になった。頭が冷えたとも言う。ので、僕は至極冷静に目の前の婚姻届を鷲掴みにして、くしゃり、そして明々後日の方向へ消える魔球を放った。奇声を上げながら。  ふぅ、さて。僕は満足げな顔で目の前の女性と向き合った。そんな二人の間を切り裂く白い影。  はらり。  反射的に上を見ると、二階のラウンジを誰かが歩き去っていくのが見えた。彼か彼女が落としたものだろうか。そして視線は下へ。テーブルの上に鎮座している婚姻届へ。……婚姻届へ?  その紙切れは皺ひとつない綺麗なもの。なのにさっき投げ捨てた紙とよく似ていた。なぜ? 目の前の女性は、ほれ見たことかと言わんばかりに凛とした表情だ。認めたくはないが顔が良い。  僕は意を決して咳払い。工場はすっかり停止してしまった。今の僕は脳が直通で動かしているウルトラモービルだった。免許はないが、緊急事態にライセンスもへったくれもないのだ。  ウルトラモービル僕は必殺技を繰り出した。 「……印鑑、持ってないんですけど」  いや待て、弱すぎないか? これが必殺技では全国の現実を知らぬ少年諸君ががっかりしてしまうのではないか? だがウルトラモービルと化した僕はそんな疑問などおくびにも出さずにポーカーフェイスをかましている。僕は婚姻届を書けない。結婚しない。完璧じゃないか。ロボットものは突っ込みどころがあるくらいが丁度いい。  勝ち誇る僕の肩に軽い衝撃がとんとん、と。振り返ると学生らしき制服の男性がこちらを見ている。 「これ、落としましたよ」 「え、ああ、ありがとうございます、ぅ?」  ウルトラモービルは故障してしまった。これ以上平静を保ってはいられない。僕の手には、僕の名字が刻印された印鑑が収まっていた。思わず女性の方を見る。ふつくしい。  いやいやそんなことより、これで断る理由がなくなってしまった。唯一縋りついていた藁が根元から剝がれてしまったようだ。どうするんだ工場長。何かないのか。え、この状況から脱出できる案があるんですか!? 「……証人、いないんで」  弱い、いや弱すぎるっ! ないよりマシなひのきのぼうじゃないか! こんな装備で目の前の得体のしれない、純白可憐な裏ボスに立ち向かわなければならないっていうのか。今年のクソゲーオブザイヤーはこいつで決まりだァ!  不安に揺れる僕の肩にふわぁっと広がる生暖かい息の感触。僕の経験から言わせてもらうと、このタイミングで背後に立つ人間にはろくな奴がいない。 「あらぁ結婚かいあんたらぁ! いいわね若いってねぇ! いいわよいいわよ保証人のとこ書かせてちょうだいっ!」  名も知らぬ顔も知らぬ謎のおばちゃんがシンボルエンカウントし、有無も言わせず通り過ぎ去った嵐のあとには保証人欄の“熊田幸子”という名前だけが残っていた。無残な光景だ。何もかも飛んでいってくれたらどんなによかっただろう。  がっくりと落ちた僕の肩に以下略。もうやめて、やめてくれ。 「おっ、あんちゃん青春だねぇ! 保証人なら俺もなってやらぁよ!」  なぜシンボルエンカウントなのに避けられないんだろう? 僕は、ヒト科が前にしか視界がない生物になってしまった進化の過程を恨んだ。僕はシマウマになりたかった。そうすれば見知らぬ美女に結婚を迫られることもなかったのに。  負けだ。完全に負けだ。必要なものは揃ってしまった。あとはボールペンを手に、少しばかり意識を飛ばせば婚姻届の出来上がり。これ以上の抵抗は望むらくもない。敗戦兵の心地で2つ並んだ保証人欄を眺めていると、思考に生まれた違和感に思わず眉が歪む。その正体は見えない。なんだ、今度は何を思い付いた?  そこでふと気付く。そういえば、僕は別に結婚を迫られている訳ではなかった。彼女は最初に喋った一言以外何も発していない。ただ僕が抵抗して、ただただ状況がそっちに転がっていくだけだ。思えば、彼女は結婚して、とすらも言っていない。結婚“するしかない”だ。思えばこの言い回しに違和感を覚えるべきだった。……まさか本当に運命の人だって言うのか? ただの口説き文句でも甘い言葉でもなくて、事実として? だから婚姻届も降ってくるし、印鑑も沸いて出てくると?  目の前の女性を見る。彼女は凛と佇んでいる。待っているのか、運命が実行されるのを。 「結婚しない、と言ったら?」  僕は初めて、女性に話しかけた。返答ではなく初めて、自主的に。 「この世界線が消滅します」  世界線? 消滅? 僕と結婚しないと世界が滅ぶとでも言うのか? 確かにそれは困るが。妄想の中の友達も消えてしまうということだし。そうだろう? ……ああそうだ、いないんだった。ずずず。ふぅ。 「正しく言えば、私たちが結婚しない世界線は既に消滅しています。つまり私たちがここで話している時点で、私たちは結婚します」  僕はいつからドキドキラブ(コメ)小説からSFの世界に迷い込んでしまったんだろう。この話のプロットを組み立てるときに一体どこで何を間違ってしまったんだろう?  でも、段々と状況を理解してきた。目の前に見知らぬ女性が座り、第一声に結婚という文言が出るという状況それ自体よりも複雑な状況に置かれているようだ。試しに婚姻届を破り捨ててみた。すると肩をとんとん、と。振り向くとウェイトレスさんがいる。 「お客様宛にこちらが。……はい、確かにお渡ししましたので」  受け取ったのは見覚えのある大きさの茶封筒。中身はもちろん……ほら、婚姻届だ。ご丁寧に保証人欄まで書かれている。誰だろうこの、何て読むんだこの名前? てんぺいじ?  ――天を仰ぎ、息を吐く。底に余ったコーヒーの残りを飲み干し、もう一度息を吐く。目を閉じ、今度は大きく息を吐いた。 「よし、…………結婚しよう」  僕は典型的日本人気質を発動し、逃れ得ぬ運命に捕まった。  残念、ではないな。いやない。天から美人が降ってきたと思えば苦じゃない。むしろ楽かもしれない。トンデモ状況に巻き込まれて失念していたが、実はとてもおいしい立場なのではないか、僕?  と、再び流れ出したベルトコンベアを眺めながら婚姻届に記入を終える。続いて女性が書き込み、完全体婚姻届が完成した。役所にミサイルの如くぶち込めば法律は二人を永遠に祝福せざるを得ないというシロモノである。 「ありがとうございます。ではあと、これを」  さぁてまだ書くものあったかなーと内心ウキウキに持ち上げたペン先が“離婚届”という文字を捉えて止まった。なんだって? クォーテーションの中が読めないんだが? 「運命が実行されましたら、こちらも出しておきますので」  あぁ……そうね。結婚するのが運命であって、その先は保証してないもんね……。  はぁぁぁ、と漏れた今日一番の溜め息は、印鑑の間抜けな音にかき消されて終わった。
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