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エピソード6
私はその日付をはっきりと覚えている。
9月28日
その日先生は、いなくなった。
その日は雨模様で、なんとなく学校全体がどんよりとしていた。なにか不穏な雰囲気で、その原因を知ることはないまま、真面目に授業を受けていた。ようやく放課後になり、いつものように美術室に向かった。その日は珍しくサキもついてきて、二人で喋りながら美術室のドアを開いたのだった。
「久しぶり」
エプロンをつけた橋本先生がキャンバスの前に立っていた。
「え、はしもっちゃん!?西村先生は?」
「俺が元気になったからあいつはもう来ません。全治3ヶ月を驚異の2ヶ月で回復!」
「えー」
「残念だったな。でも俺が戻ってきて嬉しいだろ?」
「全然!西村先生とはしもっちゃんとじゃ大違いだし…」
サキは先生にそんな軽口をたたきながら私の手を優しく握った。私はそれに気づいて、強く握り返した。
「西村先生、何かあったんですか?」
私の台詞に、橋本先生は困ったように少し笑った。
「何もないよ」
「でも、先週で終わりだなんて、何も聞いてなくて…。また来ますよね?先生の助手ですもんね?」
「うん。来るかもね」
かもって何だろう?
足元から全身に不安が襲ってきて、私はなんだか泣きそうになった。
「あ、橋本先生。こんにちは」
後ろから佐々木君の声がした。
「こんにちは。佐々木が二人目の部員になってくれたんだってな」
「はい。それより西村先生はいらっしゃいますか?」
「なんだよ皆あいつばっかり。あいつは先週でおしまい」
「やっぱりいらっしゃいませんか。…あの、さっき女子達が噂しているのを聞いたんですけど…」
私は静かに振り返った。彼の口がいつもの無神経な調子で動くのを茫然と見つめていた。
ニシムラセンセイ、ジョシセイトニテヲダシテクビニナッタッテ。シャシンモデマワッテルラシイヨ、ホラ…
そういって彼がスマホを取り出した途端、サキの掌が佐々木君の右頬を弾いた。
パアン、と音が響いた。
「え…」
佐々木君がスマホを落とす。サキは彼を睨みつけると、いつもの大声ではない、冷たく低い声で言った。
「そんな根も葉もないクッソしょーもない気色悪い噂が広まるのに加担してるの自覚してくれる?」
「…はい、ごめん、なさい…」
私が呆気に取られていると、サキは普通の表情で振り返った。
「はしもっちゃん、今日こいつは私にしばき倒されるので部活を休みます」
「はい」
「リエ、ごめん」
「え」
「先帰るね」
「あ、うん。ばいばい…」
あっという間に二人の足音が遠ざかっていく。
私は何が起こったのか分からなかった。一瞬傷ついたような気がした胸は、生温い感覚で、感情の行方が自分にもよく分からなかった。
「平井、違うからな」
橋本先生はいつになく真面目なトーンで言った。
「はい」
「あいつはそういうのありえないから」
「はい」
「いや、そうじゃなくて…」
橋本先生にしては珍しく、言いにくそうに口ごもった。
ああ、知りたい。
先生の涙が蘇った。
知りたい、知りたい、
「…西村先生、大丈夫なんですか?」
私を見る橋本先生のめがねの奥の目は、動揺していた。
「大丈夫、だよ」
ああ、この人も大人だけど、人間なのか、と思った。だって、目が言っている。
話したい、と。
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