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西村少年は十六歳の頃、絵画の才能を買われ、フランスへのチケットをプレゼントされた。彼はそのとき、断ろうとしていた。彼にとって絵は単なるストレスのはけ口で、好きなものではなかったから。しかし、彼には美術に秀でた叔父がいた。叔父は少年を必死で説得し、彼を何とか飛行機に乗せたのだった。
彼がフランスで通った美術学校は、音楽学校が併設されており、事あるごとに交流会が行われた。フランスで燻っていた少年は、友人に誘われ、音楽学校の女子生徒のクリスマスステージを見に行った。彼女は高校生ながらすでに名が知れているらしかったが、音楽に疎い西村少年はそんなことも知らず、重たい気持ちで会場にいた。開演する頃には気づけば立ち見客も出る程、満員だったという。
ブザーが鳴り、開演のアナウンスが始まる。拍手に包まれて、小さな少女が現れた。長い茶髪を揺らして、スタスタとステージの中央に進む。丁度真ん中で止まると、ニコリと笑って、一礼した。ただの学内交流会だからだろうか、ドレスではない、薄い生地のワンピースを一枚着ていた。
彼女の歌声は、まさに天使だった。
その第一音から会場に心地よく浸透し、観客全ての心をいやした。勿論、一人の日本人の少年も含めて。その声は彼を優しく包むと、肌に溶けて、甘く、しかし清廉に彼の内部で響いた。共鳴して、骨まで震えた。あまりの美しさに、彼は涙を流した。
ステージが終わると、彼は走って裏口に回った。コートを忘れたが、そんなことは気にならないほど彼の体温は上がっていた。しばらくすると、ひとりの小柄な少女が現れた。分厚いコートにくるまって、さらに小さく見える。
彼は勇気を振り絞って、あの、と声をかけた。吐いた息が白くなる。
君の歌声は、この世のものの中で一番美しい…
不慣れなフランス語だからか、ステージの高揚からか、彼はそんな口説き文句を恥じることなく次々と並べた。堰切ったような勢いで全ての称賛を贈ったあと、彼は我に返って赤面した。ずっと真顔で黙り込んでいた少女は吹き出して、彼の目を見つめた。
「あなたは絵を描く人でしょ、作品が見たいわ」
「なぜ分かるの?」
「…秘密」
後から聞いたところ、彼の服の袖に何色もの絵の具がついていたらしい。
少年は驚いたが、快諾して飾られている自分の絵の前まで案内した。しかし、自分で自分の絵を目にした途端、恥ずかしくてたまらなくなった。
「ごめん、やっぱり戻ろう」
「どうして?」
「君に見せられるような絵じゃないからさ」
「もしかして、アレ?」
彼女が指さした絵は、まさに彼の絵だった。彼は渋々頷いた。少女は近づいて行ってその絵をまじまじと見ると、微笑んだ。
「嫌いじゃないわ、でも、この絵より、貴方自身の方が美しいと思う」
「え…」
「自分自身より美しい絵を描けたら、また会いに来てちょうだい」
少女はそう言うと、一人で去って行ってしまった。彼は追わずに、迷いなく自分の学校のアトリエへ戻った。そして、一つの大きなキャンバスを用意すると、一心不乱で絵を描いた。
気付けば、キャンバスには歌う少女が現れていた。
しかしそれは、彼にとって彼女ではなかった。彼はどうしても彼女を、彼女の歌声の美しさをありのままに表現したかった。なぜならそれが、間違いなく自分自身より美しく、それどころか世界で最も、何よりも美しいものだったから。
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