エピソード6

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 一か月、彼は見違えるほど真剣に絵と向き合っていた。一枚のキャンバスに、描いてはその上に色を塗って別の絵を、気に入らないのかさらにその上から別の絵を、何度も何度も重ねていった。仲間たちは次々に消されていく作品を見て、何度も、もったいない、と叫んだ。それでも、彼は上から描き続けた。 カタン 24時間、常に筆を握っていた彼が、ある日筆を落とした。仲間が振り返ると、彼はぼさぼさの頭でぼーっと自分の絵を見つめていた。 …できた 周りに学生たちが集まる。皆息をのみ、言葉を失った。 その絵は間違いなく、美しかった。 彼は、自分の女神を描き上げたのだった。  少女はその絵を見ると、涙を流した。 「これは、私がモデルなの…?」 「当然だ、この世で最も美しいものを描き上げたつもりだよ」 少女は少年に抱きついた。 それ以降、二人は何度もデートを重ねた。 彼が日本へ帰った後も、やり取りは続き、卒業後彼は迷いなくフランスへ旅立った。 しかし数年経ったある日、彼女が突然音信不通になった。彼女の通う大学に問い合わせても、彼女の住むアパートを訪ねても、皆口をそろえて何も知らないと言うのだった。 しばらくして、彼のもとを訪れた人物がいた。彼の叔父だった。叔父は荒れた部屋と憔悴しきった彼を見るなり、二人分の搭乗券を買って日本に連れ帰った。日本で暮らし、病院へ通ううちに少し元気を取り戻した彼は、また絵を描き始めた。しかしなまった手は思い通り動かず、女神を失った心は、美しいものを思い描けなかった。非常勤講師をしている叔父は、リハビリがてら、彼の働く学校に甥を連れて行った。自分の心情を描けと言われると、彼はただキャンバスを真っ赤にして、帰っていった。  彼の体調はなんとか回復していく中、叔父は車にはねられ、全治3か月のけがを負った。入院中、半ば諦めつつ甥に講師の代理を頼むと、彼は意外にも承諾した。
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