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3(26〜42)
母は数日前から住居を別にしていた。父もまた帰らぬ日々が多くなっていた。日中は農作業を手伝うようになり、民と共に汗を流していた。およそ2年の歳月…。未だ鳥を易く射れるほどの力こそ有していなかったが、小獣程度であれば一緒に狩りに出られる程には成長していた。
「あぁ-気持ちいー」
昼の作業で熱を持った身体を冷やすため、付き人のモルジブと共に川に来ていた。普段は父と過ごすことが多いのだが、いない時の多くはこのモルジブが父の代わりをしてくれた。父の代わりと言っても、父祖母よりも歳は上だと聞いており、「儂ももう少ししたら長老になるのか」と話しているのをたまに耳にしていた。顔を覗けば深い皺と厚い髭が年齢を感じさせるものの、父よりも大きく逞しい身体だけ見れば、長老と呼ぶには若過ぎる印象を子供ながらに感じていた。
「ねぇ、モルジブっ。腕グッてやって!」
「またか?こんなの見てもおもしろくないだろうに…」
モルジブは片腕を曲げて力こぶを作って見せてくれた。自分の頭の中では、今の力を超えた力を入れなければあのこぶはできないような感覚であった。モルジブのような身体になっている自分を強く想像してみた。胸に手を当て、鼓動を確かめる。自分の中心がこの鼓動するところにあることはすでに知っていた。だが、想像するよりも弱く穏やかであった。みなぎるような強い拍動は得られない。走った後のあの感覚ではないことは理解していた。呼吸を変えたり、全身に力を入れてみたりとあれこれ試してみるが、想像する感覚を得たと思って力こぶを作ってみても、何も変化はなかった。
「ねぇ、どうやったらそんなにボコってなるのかなぁ?」
何度も尋ねたことだったが、この日もまた同じことを尋ねている自分がいた。
「ハハハっ、鍛えるしかないさ」
やはり同じ答えが返ってきた。
「でもモルジブぅ。草刈り頑張っても、重い物運んでも、走って"ここ"を鍛えようとしても全然変わらないんだよ?」
"ここ"とは胸の鼓動するところ。
「一生強くなれないのかなぁ…」
するとモルジブは自分の身体を水中から高々と抱き上げた。
「ジンバよっ!お前は今、儂に持ち上げられておるなぁ。これがお前だ」
そう言った後、自分を肩に座らせ、そのままに川を上がった。人が座るにちょうどいい岩場を見つけると、自分をゆっくりとそこに降ろした。
「…よっこらせ、っと…」
モルジブは濡れた身体のまま、自分を降ろした岩場の目前にある土上に腰を降ろした。
「よく聞け、ジンバよ…。
儂は難しい言葉は語れん。だが、お前をそこに座らせたのはお前が王子だからではなく、お前だからだ。儂のこの身体と力ってのはそのためのものだ。
お前は今のままただ生きろ。もし、お前がそこに座るのを気に食わんと思えば、儂の力はお前を川底に沈めるために使われるだろうな。
それが嫌なら…、とりあえずがむしゃらに鍛えるこったなっ!」
モルジブはまた自分を抱きかかえると、腰横で大きく揺りかごのように揺らし始めた。
「アハハっ」
浮いては沈むようなあの飛んでいきそうで飛ばない感じ。よくモルジブは高く空に投げてくれたりと色んな形で自分にやってくれていた。濡れた身体で感じる風は特に気持ち良かった。すると急にその手は離された。すぐに身を守ろうと身体に力が入った。息は無意識に止まる。支えを近くに求めるが、そこには空しかない。とても長い時間に感じた。
「……っく」
喉の奥で呼吸を止めた。吸えば水が入ってくることを瞬時に身体が察した。すでに身体は川の中。どれほど深く沈んだだろうか。川の勢いは緩く、だが、それでも僅かに身を流す。だからこそ、水面がどっちにあるのかすらわからなくなった。
(……死ぬっ)
諦めたその時、身体は水上に押し上げられた。すぐに吸えるだけの息を吸い、顔にへばりついた水を手で拭った。足先は川底を探していた。だが当然触れることなどできるはずもない。すると大きな影が近くに飛び込んできた。しぶきが視界を奪う。すると、自分の身体は強く抱き寄せられた。すぐにそれが誰かにおいでわかった。
「ガッハッハ!おもしろかったかっ」
モルジブだ。
「…っ、…助けてっ」
思わずその言葉が口から出てきていた。その時はすでに恐怖心などなかった。身の危険は一切感じていなかった。だが、本能はその言葉を選んで発しさせていた。
「これぐらいで助けを求めてたら笑われるぞっ。落ち着けっ、もう大丈夫だろうが」
その言葉を聞き、一呼吸おくと、身体は自然と慣れた感覚で水に浮かんでいた。次に耳が穏やかな空気を感じとり、その後、目の前にやけに落ち着いた景色が現れていることにようやく気づいた。
胸に手を当ててみるが、鼓動が特に焦っているようには感じられなかった。
(あれ…、何だろ、この感じ…)
不思議な感覚だった…。違う世界に来たような…。でも、それとは異なる妙な静寂と言うべきか…。少なくとも自分の年頃では言い表せない、経験したことがない感覚に陥ったのは確かであった。
自分はそのまま川から出ると、しばらくその感覚に浸っていた。
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