タルパと夜に泣く。1

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タルパと夜に泣く。1

今日も隣の男は孤独だ。 「アナ。」 そう私を呼び抱きしめる。 頭と背中に置かれた手。 大きく安心感を与えてくれるが凍える様に震えていて酷く哀れだ。 「アナ…。俺にはアナしかいない…。」 ボサボサに伸びた髪。 疎らに生えた髭。 抱き縋られる度、それらが頬に触れヒリヒリと痛みを産んだ。 ほんのりとアルコールの匂いが鼻腔に届く。 また一人で飲んでいたのか。 最近は少し落ち着いて来ていたのに…。 私は男の背中に腕を回すとまるで子供をあやす様に優しくさすってやった。 男は肩を震わせながら泣いている。 「やっぱりアナだけいれば良い…。だから…。」 掠れた声を喉から絞り出して縋り付く。 男の涙が私の肩に染みを作った。 「大丈夫。私は何処にもいかないから。」 そう応え罪悪感で胸が痛くなる。 私がこの男に見せる姿は嘘ばかりだ。 毎晩酒浸りな男に向い無責任に言う大丈夫も、何処にも行かないなんて約束も。 全部でたらめでしかない。 そもそも私はアナじゃないのだから。 私は「町田 手毬」。 この男との関係はただの隣人だ。 『タルパ』 人工精霊とも言われる。 意図的に作り出したイマジナリーフレンドの様なもの。 自己暗示の一種で、上手くいけばタルパはまるでそこに本当に存在しているかの様に振る舞うところまで育つらしい。 そこまでいけば会話や意思疎通ができ、触れれば温もりまで感じるそうだ。 その分完成させることは相当に難しい上、形になるまで続ける忍耐力が必要になってくる。 と、ここまで調べ諦め癖のある私はとても無理だと思った。 ただ道具の用意も必要なく、身一つですぐにでもはじめられるので準備はそう難しくない。 手順は以下の通りだ。 先ずは細かい設定を決める。 その際、実在のモデルを使っても全くの想像でも可能なのだが、矛盾なく細部まで決めておいた方が後々成型し易くなってくる。 そしてそこから視覚的情報も細かく決めていき動きや声を付けていく。 最初のうちは意識して。 この子はこう動く筈でこういう表情をするとか、こう話しかけたらこう返してくるとか。 それを何度も繰り返していくと最終的には勝手に喋って勝手に行動する様になっていく。 だからこの時、成る可く自分とは違う価値観を持った人格を設定した方が完成した時のやり取りが楽しくなる。 中には自分に都合が悪く耳の痛い助言をしてくれるタルパもいるというから思い込みの世界も奥が深い。 手順で言えばこれだけのことだ。 しかし実際はそう上手くはいかないだろう。 しかもこれだけ思い込みの力を無理矢理使い続ける自己暗示だ。 精神に良くない影響を及ぼすことは想像にかたくない。 素人の私には具体的にどう悪影響なのかどんな病名がつく様になるのかはわからないが、きっと真面ではいられないだろうと思う。 これだけの手間と時間をかけこんな恐ろしいモノに手を出すのは、好奇心に駆られた大馬鹿者か、余程孤独な人だろう。 そしてこの男は後者だ。 「アナ…。」 私をタルパだと信じ甘く囁く。 孤独なこの男にとってタルパは家族であり、友人であり、恋人だ。 友人と語らう様に好きなことを話し、家族にする様に甘え、恋人にする様に触れる。 憐憫の念から自分がタルパではないと言い出せないままこの茶番に付き合っていたが、何度も肌を合わせるうちに情が湧いてしまった。 私もまた孤独なのだ。 この男から与えられる温もりが渇いた心にうっかり染み込んでしまったのだから仕方がない。 そして離れ難いところまできてしまった。 実在しない「アナベル」と言う存在に成り代わりこの男の愛情を独占している。 それが今の私の唯一の幸福だ。 今日もまた私の中に男が入ってくる。 何度この瞬間を味わっても慣れない。 指では届かない奥までこじ開けられる度身体も心も悦んでしまう。 男は年齢の割に不健康に痩せ細ってはいるが、広い肩幅を持ち男性らしい体格をしている。 切れ長な目からは冷たい印象を受けるが、目尻が微かに垂れていて縋る様に見詰められると私の母性本能は容易く刺激された。 誰もが一目で恋に落ちる程に優れた容姿をしている訳ではないが、どうしてこんな孤独な生活を送っているのかと疑問に浮かぶくらいには魅力的ではある。 荒んだ雰囲気に初めは恐怖を感じたものの、その目に見捕えられ身体を触れさせた瞬間。 私はこの男の全てを受け入れても良いと本能で感じてしまったんだ。 物思いに耽っていると無精髭をこさえた口が私の首筋をくすぐった。 嬌声を上げ身を捩る私に男は満足気に目を細めている。 何より至福の時。 「アナ…。」 だけど名前を呼ばれれば現実に引き戻されてしまう。 この男の口から出るのは私の名ではないのだから。 途端に隣の自宅で一人寂しい夜を過ごしている「町田手毬」自身の姿が脳裏に浮かんだ。 こんなことがずっと続くわけがない。 あと何回こんな風にこの温もりを享受できるのだろう。 あとどの位一緒に過ごせるのだろう。 いつ来るのかわからない終わりに怯えながら、私はこの男のタルパになった日のことを想起する。 あれは3か月程前。 むせる様な湿気の中に紫陽花が咲く6月。 亡き祖父の友人であり隣人でもあった「國本 源造」さん。 その生前の意向に沿ってこの家を訪れた時のことだった。
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