好きをわすれないで

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「……っ」  柚一は言葉も出ないようだ。自身の体をまさぐっていた手を、乱れた着衣を直すことに急いで変えた。慌てているのか、立ち上がろうとした足がスラックスの裾を踏み、尻から転倒する。 「ご、ごめ……っ」  やっとマットレスから離れて立ち、チャックを上げようとする。だが、手が震えているのかうまく上がらないようだ。  諦めたのか、今にも下に落ちそうなスラックスもそのままに、次はワイシャツのボタンを閉じようと手を胸元にやった。  震える手では、こちらもうまくいかないようだ。眉根をハの字に下げ、泣きそうになりながらボタンと格闘する兄は、見ていられないほどに痛々しかった。  なんて哀れなんだろう。情けなくて、こちらまでもが恥ずかしくなってくる。  真翔は呆れた。ため息しか出てこない。  居心地の悪さに耐えきれなかった。自分が見ていたら、もっと時間がかかるかもしれない。  真翔は「ハア」とため息を舌に乗せ、柚一に背を向けた。 「待って……っ!」  後ろからガッと腕を掴まれる。痛みから睨みつけると、柚一はすぐに手を離した。 「ごめん……ごめん……っ」  はだけた衣類を手で押さえながら、柚一は切羽詰まった表情で謝ってくる。 「何回目?」 「……え?」 「何回、俺の部屋でオナッた?」 「きょ、今日が初めてだ。噓じゃない。本当に、今日が……っ」  信じられない、という気持ちが、柚一へと向けた目に滲み出ていたのだろう。柚一は消え入りそうな声で「本当なんだって……」と言い、首を小さく横に振った。  沈黙が流れる。外から聞こえる雨の音が、今はありがたかった。  状況をやっと飲み込むことができたのか、柚一は「気持ち悪いもの見せてごめん……」とすまなそうに頭を下げた。  思ったより気持ち悪いとは思わなかった自分に気づいたが、真翔は無視した。 「マットレス替えよう。俺が払う。真翔がそうしたいって言うなら、部屋に鍵をつけたっていい。俺が入れないようにしてもいいから……っ」  自分の言葉に傷ついているのか、柚一の吐き出す声は徐々に弱くなっていく。その姿を見ていると、無性に腹が立ってきた。 「気になる人ができた」  自分でも、どうしてこのタイミングでそんなことを言ったのかわからなかった。 「兄貴とは違って女だ」 「……」 「その人も俺を好きだって言ってくれてる」  どうしてか、柚一の顔が見ることができない。酷いことを言ってるとは思わなかった。それなのに、なぜか気分は最悪だった。 「家のことをやるって言ったけど、部屋が見つかったらここも出ていくから」  しばらくしてから、柚一はぽつっと言った。 「その女性と、一緒に住むのか……?」 「まだわからない」  柚一は「そっか」と、再び手を動かし始めた。シャツのボタンを留める。あんなにガチガチに震えていた手は、驚くほどスムーズに着衣の乱れを整えた。 「真翔は昔からモテてたもんな。背高いし、無愛想だけど母さんの英才教育のおかげで、無自覚にレディーファーストできてるし」  柚一のあっけらかんとした反応に拍子抜けする。 「おまえはいい彼氏、いい旦那になるよ。うん、俺が保証する」  柚一は一人納得して、真翔の横を通り過ぎていく。部屋から廊下に出た柚一を見て、真翔はギョッとする。  ふと見た柚一の目が、真っ赤だったのだ。涙袋も真っ赤に腫れ、今にも涙が零れ落ちそうだ。
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