355人が本棚に入れています
本棚に追加
/102ページ
***
毎朝見る顔ぶれがちらほらと並ぶ列の最後尾で、真翔は足を止めた。
バス停である。前に並ぶ中年女性二人が、上司の愚痴をこぼしているのが聞こえてくる。営業所の近くには大手食品メーカーの食品工場がある。「工場長がいけないのよ」という発言から察するに、女性二人はその工場のスタッフなのだろう。
汗で首が痒い。ポロシャツと襟のあいだに指を入れて隙間を作るが、あまり意味はなかったようだ。汗が引くわけでもないし、涼しい風が入り込んでくるわけでもない。
炎天下の中でバスを待っていると、ポンと肩を叩かれた。頭を後ろに振り返りきる前に「おはよ」と声がかかる。同僚の安田だった。
「……」
「なによ。ぼーっとしちゃって」
「あ、いや、べつに……」
「別に、ってそれだけ?」
冗談っぽく笑っているが、どこか本気っぽい言い方だ。真翔はキャップのつばになんとなく手を添えて顔を隠し、「――ザッス」と短く挨拶した。
安田の顔を直視できないのは、昨日の安田の言動が頭の片隅に引っかかっているからだろう。真翔は自分の心拍数がわずかに上昇するのを実感した。
――自分でもいやなヤツだなって思う。でも、もし加倉井君が彼女さんと別れたっていうなら、私は嬉しい。
昨日の朝、安田はどうしてそんなことをわざわざ自分に言ってきたんだろう。
昨日から四六時中考えていたわけではないが、ふとしたときに頭をよぎった。そのたびに柚一の顔が浮かんでは、身に覚えのない罪悪感で胸がいっぱいになった。
昨日の夜、本当は柚一に相談してみたかった。一般的にはどういう意味を持つのか。兄として。男として。同僚がこういう風に言ってきたんだけどどう思う?――と。
でも柚一は自分のことをまだかつての恋人として見ているのだ。それを前提に質問して……自分は訊き間違えてしまった。
自分でもバカだなと思う。結局明らかにショックを受ける柚一の姿が見るに堪えなくて、話題を変えようと思ったら自分が家事をほとんど引き受けることになっていた。
はぁ、とため息をつくと、安田がヒョイと顔を覗いてきた。均等に灼けた小麦色の谷間が近づき、思わず目がいってしまう。
「私のこと、ちょっとは考えてくれた?」
「……え?」
ふと安田を見ると、相手はそばかすが散った鼻のあたりをくしゃっとさせて笑った。
「え? ってひどいなぁ。私けっこう直球で言ったと思うんだけど」
「直球……スか」
「もしかしてわかんなかったっ?」
「すいません。俺、『京都人にぶぶ漬け出されても絶対帰らないタイプ』って言われるくらい、言葉のまんま受け取るところあるらしいんで」
「ふふっ。それだれが言ったの?」
あれ……誰だっけ。親しい間柄の人間だった気がするが、誰がそう言ったのかまでは思い出せなかった。
「ダチっスよ」
「そう。元カノかと思った」
「……」
安田の言いたいことは、やっぱり『そういうこと』なんだろうか。確信がもてずにいると、安田は今朝食べた朝食の報告でもするかのようにぽつっと言った。
「私ね、加倉井君のことが好きなんだ」
最初のコメントを投稿しよう!