好きをわすれないで

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「いつまでに答え出せって言わないと、男は逃げます」 「か、加倉井君は逃げないって信じてるから……」  前のめりになる安田に、真翔は言った。 「買いかぶりすぎです」  フッと自嘲気味に笑う。兄の視線や感情から逃げてばかりの自分が、ひどく情けなく感じる。真翔は独り言のような声で言った。 「今すぐ返事をした方が、きっと安田さんの気持ち的には楽なんスよね。それか……期待させるためにもなあなあにして、返事を出すのを引き延ばすとか」 「わかってるのに、期限決めるの? でも、そんなことしなくても私は待つよ。自分の気持ちを押し付けたくないし。それで嫌われたくないから」  譲歩してくれているのだろう。が、安田の条件を受け入れたら、自分は柚一にしていることを、安田にもしてしまうことになる。  そうしたら自分は……自分の自尊心はどうなるんだろう。柚一に対して覚える罪悪感を、安田に対しても抱くことになるのだろうか。  疲労が胸に溜まる感じが重たい。ああ、なんて面倒くさいんだろう。今すぐ逃げたい。兄の傍から離れたい。  まだ職場にも到着していないのに、帰りのことを考えると今から憂鬱だった。帰った家で柚一が待っているのかと思うと、ため息が自然と多くなってしまう。  どうして自分が家事をやるなんて言ってしまったんだろう。期待させるようなことを、言ってしまったんだろう。  自分の言動に一喜一憂する兄の姿なんて、本当は見たくないはずだった。  でも昨日の自分は、ショックで死人のような目になってしまった柚一を、喜ばせてやりたいと確かに思ったのだ。だからあえて喜ばせるようなことを言った。記憶を失くす前の自分の片鱗を、わざと見せた。  でも目の前に兄がいなければどうだろう。憐憫(れんびん)の気持ちと罪悪感から離れたいと、強く願ってしまう。『いつまでも俺をそんな風に見るな』と、心の中で悪態づくことだってできてしまう。  そんな自分がつくづく嫌になる。せめて……真翔はせめて、他では誠実でありたいと思った。安田に……あくまでも、この先も同じ職場で働くであろう同僚に対して。  はっきりしない自身の感情に疲れる。真翔はいつまでも来ないバスを探すように、細めた目で道路の先を見た。 「俺はいい男じゃないんスよ。兄貴や安田さんが思っているよりずっと」 「お兄さん?」安田が不思議そうに復唱する。だが真翔はそれには答えずに続けた。 「今すぐ答えを出せなくてすいません。でも来週には必ず言います」 「……無理されても困るよ。すぐに答えを出せないってことは、私のことをそういう対象として見てなかったってことでしょ?」  言いにくそうに安田が口を開ける。安田がそう言うのも、無理はない。だが、安田を女性として見れないとか、タイプではないとか、そういったこととは無縁だった。告白されて、正直嬉しかったくらいだ。  柚一とちゃんと話をしよう。柚一が自分にまだ気持ちがあるなら、離れた方がお互いのためだと伝えよう。  また渋られ、引き留められるかもしれないが、このままだといつまで経ってもお互いに前へと進めない。  安田はそのきっかけを与えてくれたに過ぎない――。 「少なくても、今はそういう対象として見てます。ていうか、見ないようにしようとしても、どうしたって見ますよ。好きだって言われたら」  真翔は困っていることを正直に言った。  安田はホッとしたようだ。じわじわと破顔し、「やった」と小さくガッツポーズした。  年上なのに子どもっぽくて、可愛いと思った。真翔は自然と口角が上がる。  柚一とは違って、安田といると自然と笑顔になる。抱く必要のない罪悪感に苦しむこともないし、百面相な表情は見ていて楽しい。  下品かもしれないが、純粋に抱きたいなと思うのも、柚一の男の体より安田の――…… 「ちょっと、なに見てんの?」  安田の声に呼び戻され、真翔は自分の目が相手の腰あたりを無意識に追っていたことに気づく。「まさか『そういうつもり』って意味、はき違えてないでしょうねっ?」と、安田に怒られてしまった。  真翔は慌てて「違いますって!」と弁明する。ムッとする安田に「ほんとに~?」と鬼の形相で問い詰められても、真翔の気持ちは柚一のことを考えてるときよりも、ずっと楽しかった。
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