好きをわすれないで

54/101
353人が本棚に入れています
本棚に追加
/102ページ
***  御中元による繫忙期も過ぎ去った影響か、その日、真翔は最後の荷物を夕方の五時前には届け終わることができた。  安田はまだ配達エリアから戻ってきていないようだ。配達トラックから降りた際に安田の軽トラを探したが、見当たらなかった。  制帽から自前のキャップに変えたのち、冷房の利いた営業所を出る。外はまだ昼間の名残で明るく、うだるような暑さに体中の毛穴から汗が噴き出す。  夏場の宅配達は暑さとの戦いだ。他の季節に比べて、肉体としての疲労が溜まりやすい。今日は荷物の数も少なかったから、そこまで体は疲れていない。  だが、家路につく真翔の脚は重たかった。帰ったら、柚一がいる。考えるだけで、平坦な道さえ足場の悪い山道のように感じられる。  柚一は小学校で働いている。今は五年生の担任を受けもっているらしい。先日、漢字テストをリビングで採点している柚一に、「何年生の?」と訊いた際に返ってきた。  柚一に言われて初めて、真翔も『そうだった』と真翔が五年生の担任であることを思い出した。  自分の記憶についていえば、『言われて思い出すこと』と、『言われても思い出せないこと』の二つがある。これがこの数ヶ月、真翔が生活していくうちに理解したことだった。  保護者会や面談などで忙しいときもあるようだが、柚一はたいてい真翔より先に帰宅していることの方が多い。書類作成や採点などの仕事が残っていても、よっぽどのことがない限り家に持ち帰るスタンスのようだった。  バスと電車を乗り継ぎ、最寄り駅に降り立ったのは六時半だった。いつもより一時間以上早かった。  食事はほぼ自分が担当すると豪語してしまった手前、手ぶらで帰るわけにはいかない。真翔は駅前のスーパーに寄って、冷やし中華の材料をカゴに入れた。  スーパーで夕飯の買い物を済ませ、マンションに着く頃には空の雲行きが怪しくなっていた。灰色の空は、今にも雨が降りそうだ。遠くの方からは、雷の音も聞こえている。  家に帰る足が重いことに変わりないが、雨が降る前に着いてよかったのかもしれない。真翔はそう思うことにして、マンションのエントランスに入った。  エレベーターから降りると、屋根のある廊下から針のような雨がザーッと降り始めていた。数秒遅ければ、雨に当たっていただろう。  振り始めたばかりの雨を横目に、真翔は部屋の前に着く。玄関ドアの鍵を開け、中に入る。急に振り始めた雨は強くなる一方なのか、ドアを閉めても雨音が中まで聞こえてくる。  玄関の明かりは点いており、三和土には雑に脱ぎ捨てられた柚一の革靴があった。  予想通り、兄はすでに帰ってきているらしい。真翔は「……ハア」とため息をついてスニーカーを脱いだ。柚一の革靴も一緒に、きちんと向きを揃えて並べた。  食材の入ったエコバッグを置くため、カウンターキッチンに向かう。だが、キッチンの中から見渡したリビングに、柚一の姿はなかった。
/102ページ

最初のコメントを投稿しよう!