好きをわすれないで

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 シャワーでも浴びているのだろうか。相手の一糸まとわぬ姿と鉢合わせたくはないので、真翔は洗面所には行かずキッチンの流しで手を洗った。  冷蔵庫に食材を入れる前に、ベランダに干した洗濯物を取り込む。屋根のあるベランダなので、幸い朝干した洗濯物が雨に濡れることはなくて安心した。  だが真翔は、取り込む際にフェイスタオルを一枚だけベランダの床に落としてしまった。洗濯機に放り込みたいけれど、洗濯機は洗面所の中だ。  真翔は閉じられた洗面所の前まで行き、恐る恐る戸を引いて中を覗いた。だが、浴室にも洗面所にも柚一はいなかった。てっきりシャワーを浴びているものだと思い込んでいただけに、拍子抜けする。  洗濯機に汚れたフェイスタオルを入れ、真翔は洗面所を出た。  もしかして寝ているのだろうか。こんな早い時間に? もしかすると体調が悪いのだろうか。  ふと、そんな風に思い、今は柚一の部屋となっている寝室のドアを開けた。だが、ベッドの上にも柚一は寝ていなかった。  トイレだろうか。寝室から視線をトイレにやった、そのときだ。  トイレの並びにある玄関に一番近い部屋――今は真翔の一人部屋となっている場所のドアが、五センチほど開いているのが目に入った。嫌な予感に、胸のあたりがざわつく。  真翔は強張る喉元を緩めるように、ゴクッと唾を呑んだ。ドッ、ドッ、ドッーー……。該当の部屋へとゆっくり足を進めるにつれ、心臓音が激しくなっていく。  同時に、部屋の中から声らしき音がわずかに聞こえてきた。 「……ンッ、ぁ」  ドアの隙間からはっきりと声を認めた瞬間、真翔は全身の肌が一斉に粟立つのを感じた。 「――……ッ!」  驚きすぎて叫びかけた口を、ガッと両手で覆う。中を確認しなくても、声の主が誰なのか、何をしているのか、一瞬にして理解する。 「……あッ、も、っと……ッン」  甘く濡れた、男の声。耳がカッと熱くなる。嫌悪感で沸騰しそうだった。全身を巡る血が、怒りと吐き気で一気に頭へと昇る。  今すぐドアを蹴破って、罵倒してやりたかった。人の部屋で何をやってるんだと。気持ち悪い声を出すなと。  激しい感情を鎮めようと、肩が上下に動くぐらい深呼吸を繰り返す。両手で押さえた口元からは、指の隙間を縫ってフーフーと荒い息がこぼれた。  このまま自分の部屋で、気持ち悪いことをし続けられてはたまらない。  兄が自身を慰めている姿など見たくはなかったが、真翔はドアを破壊する勢いでドアを一気に押し開けた。向こう側の取っ手が、向壁に当たったようだ。ガンッとぶつかる音が、外に聞こえる雨音を一瞬かき消した。  目に飛び込んできた光景に言葉を失う。柚一が何をしているのか察していたはずなのに、実際に見た衝撃は想像をはるかに超えてきた。  床に敷いた低反発マットレスーー真翔が毎日寝ているそこに、着衣の乱れた柚一が寝ていた。上半身は皺になったワイシャツのボタンが外れ、胸元がはだけている。そしてむき出しの胸の突起には、左手の指が二本添えられている。  下半身はスラックスこそ履いてはいたが、柚一の右手は下着の中に入ったままだった。しかも性器が備わっている前ではない。下半身の後ろの方に、柚一の右手は伸びていた。  電気も点けず、カーテンを閉め切った部屋は暗かった。だが、こちらを向いた柚一が自分を認めた瞬間、真翔はすぐにわかった。相手の顔が、みるみるうちに絶望に歪んでいったからだ。 「なに、してんだよ……っ!」  反射的に吐き出した怒号とともに、拳をきつく握りしめる。拳の中で、爪が皮膚を突き刺すほどに。
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