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四時間目の算数の授業で、テストを返却した。昨晩、真翔が寝落ちたあとに、眠気と闘いながら採点した三十七人分の答案用紙だ。
「この前やった算数のテスト返すぞー」
「えーっ」と教室が湧き立たせる生徒たちの不満声を「はいはい静かにー」と制する。
今年度、柚一が担任を受け持っているのは四年生クラスだ。注意したところですぐに静かになるとは思えず、ブーブーとうるさい中、柚一は一人ずつ名前を呼んで、採点済みのテストを生徒に返していった。
四時間目のあとは、教室前方にある職員席で、給食のカレーを食べた。真翔の作るカレーと比べるまでもないが、これはこれでいける。そんなことを考えつつ、クリスマスだし夜はやっぱりチキンだよな、と一人納得した。
給食後は掃除をする生徒たちを監督し、それが終わると、ようやく昼休みだ。ここで柚一は、わずかだが生徒たちと離れることができる。基本的に生徒たちはみな可愛いが、長時間にわたって何人もの生徒を相手にしていると、気が張って疲れてしまう。そのため、昼休みは大事なのだ。
職員室で午前中に行った漢字テストの採点をしていると、隣のデスクに座る町田が声をかけてきた。
「あら、今日のお昼休憩は返上ですか?」
町田は四十代後半の、ふくよかな学年主任のベテラン教師だ。子どもたちには優しいが、理不尽なクレーマー保護者に対してズバッと物申せるところがすごい、と四年生担任団のあいだでもしょっちゅう話題に上がる。
走らせていた赤ペンを止め、柚一は「はい」と返事をした。
「今日は仕事を持ち帰りたくないんですよね」
「あらそうなの。もしかして彼女さんと約束でもあるのかしら?」
ニヤニヤと訊いてくる町田に、柚一は「やだなぁ、彼女はいないって言ってるじゃないですかー」と笑って否定する。
柚一は真翔という恋人の存在を、職場に話していない。同性ということもさておきながら、真翔は世間一般でいえば弟なのだ。
柚一は学校という場所を、社会から閉ざされた狭い世界だと思っている。どこから噂が立ったり、漏れたりするかわからない。
恋人が男というだけで、嫌悪感を示す教師や保護者はまだまだいるだろう。しかも相手が弟なんて知られたら、同性愛に理解のある人でさえ、味方にはなってくれないかもしれない。
余計なことは、両親や周りに言わない方がいい。
それが、真翔の想いに応えたあとに結んだ、二人の決め事だった。
町田には大学の友人が出張でこっちにやってくる、と誤魔化し、柚一は残りの時間をテスト採点に費やした。昼休み中にクラス全員分の採点が終わったあと、時計を見ると、五時間目の授業まであと七分ほどあった。
一息つくため、職員室とドア一枚で隔たれた給湯室へ向かう。インスタントコーヒーの瓶からマグカップにコーヒーの粉末を入れていると、ドアの向こうから町田の声がした。
「加倉井先生、あなたのお父様という方から電話があったんだけど、今出れるかしら?」
両親には万が一のために、小学校の電話番号を教えてある。
「わかりました。今そっちに行きます」
コーヒーは諦め、職員室の自分のデスクに戻る。保留ボタンを解除して「はい」と受話器に出ると、聞きなれた父親の声が耳に届く。
『柚一か。職場に電話してすまない』
電話越しに聞く父の声は、どこか焦燥を孕んでいた。
「それはべつに大丈夫だけど……なに、なんかあった?」
身内と話すときの口調なので、声の音量を絞る。ゴクッと唾を飲む音のあと、父は『落ちついて聞いてくれよ』と低い声で言った。
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