好きをわすれないで

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 気持ち悪いと思っていた兄の体、唇、甘い声――それらを受け入れている自分に驚いた。むしろ求めかけている。真翔は角度をつけ、柚一の喉奥に自身の舌をねじ込んだ。 「は……っン」  くちゅくちゅと舌を絡めとり、ざらついた表面を確かめるように舌を味わう。手を柚一の手首から頭の後ろに移動させ、相手の頭を固定しながら真翔は口腔を貪った。  抵抗をやめた柚一の腕が、こちらの背中に回される。「……ン」と鼻の奥から漏れた声が近くに聞こえる。真翔のことを『マナ』と錯覚しているのか、柚一はより強い力で真翔の体を自分側へと引き寄せた。  キスに没頭しながら、真翔は右手を動かす。柚一の我慢汁でぬるぬるになったそこは、キスを始めてからさらに血が集まった。  限界が近いのだろう。息継ぎのため唇をわずかに離すと、柚一は荒い吐息にまじり「マ、ナ……っ」と言った。  悔しかった。俺は『マナ』じゃない。そう言いたいのに言えなかった。 「あっ、ンぁ、や……っで、る……っイッちゃ……っ!」  柚一の声が変わる。真翔は不安定な柚一の体を支えるため、自分に押しつけながら右手の速度を上げていった。 「だめ……っマナ……お、れ……っもう、っマナぁ……っ」  柚一の口から『マナ』が出てくるたび、心臓に矢が刺さる。怒りと興奮が、柚一にしがみつかれた背中から全身を這う。  やがて柚一はビクビクッと全身を震わせて、真翔の手の中で果てた。ドク、ドク……と数回に分けて先端から白い液体を吐き出す。  柚一は瞼を閉じ、全身を落ち着かせようと息をつく。上下する胸元が汗ばんでいて、驚くほど色っぽかった。  真翔は柚一の精液にまみれた手のひらに目を落とす。粘ついたそれを見ても、気持ち悪いとは思わなかった。    落ち着いたのか、柚一がゆっくり目を開けた。近くにあったティッシュの箱から何枚か紙を抜き、乱れている自身よりも先に真翔の手を拭いた。そして掠れた声で言った。 「……ごめんな」  柚一が吐き出したものを、柚一に拭われる。労われているはずなのに、全然嬉しくなかった。まるで自分が、道具になったみたいだと思った。  柚一は立ち上がると、簡単に身なりを整えて部屋から出ていった。  一人になった部屋、床に膝をついたまま、真翔はしばらくのあいだ動けなかった。部屋には柚一の匂いがまだ残っている。柚一の下半身を慰めた感触も、吐き出された精の熱さも、柚一の唇や舌の柔らかさも、全部が鮮明に頭にこびりついている。  腹の奥から、やるせない感情が沸々とこみあげてきた。胸が苦しい。喉に何かが詰まっているように、苦しかった。  鼻の奥がツンと痛む。じわじわと目の奥からあふれてきたのは、涙だった。 「……っ」  どうしてこんなにも胸が痛いんだろう。柚一のことを考えると、涙が次から次へとあふれてくるんだろう。  真翔は声を殺しながら一人泣いた。この痛みは『マナ』のものなのか、自分のものなのか……そんなことも自分にはわからない。それが辛かった。  真翔はこのとき初めて、記憶を失くしたことを後悔した。柚一を酷く傷つけてきたことを知った。  ――やだ……っ触んなよ……俺に触っていいのはマナだけだ……っ。おまえじゃない……真翔じゃない……っ!  先ほどぶつけられた声を思い出して傷つく。傷つく資格なんてないのに、言葉は(ひょう)のように容赦なく真翔の心を叩いた。 「……柚一」  一人の部屋で、ぽつりとその名を呼んでみる。『マナ』に呼ばれた柚一は、なに?と振り返って、笑顔を向けていたんだろう。  記憶の中に、その笑顔を探した。が、真翔はどうしても思い出すことができなかった。
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