好きをわすれないで

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***  放課後、全校生徒を見送ったあと、柚一はすぐに学校を出た。今日中にやらなければならない仕事は昼休みに終えていたので、持って帰る仕事もなかった。  めったに乗らない在来線を一時間ほど乗り継ぎ、真翔の入院する病院の最寄り駅に着く。スマホの地図を見るかぎり歩いて十分もかからなそうだったが、柚一は駅のロータリーにいた空車のタクシーに迷わず乗りこんだ。  道は空いていて、柚一の乗ったタクシーは二、三分で目的地に到着した。釣り銭を受けとる時間さえも惜しく感じ、運転手に「お釣りは結構です」と言ってドアを開けてもらう。  急いで面会受付へと走り、エレベーターで集中治療室のある五階に向かった。エレベーターを降りたあと、ナースステーションのカウンターに急いた手を乗せて、柚一は近くの看護師に尋ねた。 「本日こちらに運ばれた加倉井の家族ですが、集中治療室はどこですか」  だが、看護師の返答は「加倉井さんなら、先ほど一般病棟に移られましたよ」だった。  集中治療室から移動したということは、意識が戻ったのだろうか。真翔が移動した理由を訊きたかったが、忙しそうだったので病室の階と部屋番号だけを聞いた。  再びエレベーターに乗り、教えてもらった通り二つ上の階に上がる。冬だというのに、走ったせいで暑かった。焦りも相まって、華の上や額に汗が滲んでいるのが自分でもわかる。柚一はエレベーターの中でコートを脱ぎ、シャツの袖を腕までまくった。  エレベーターを降りたあと、近くの病室の番号を確認しながら、早歩きで真翔の病室を探した。目的の部屋は、談話室らしきスペースの隣にあった。六人部屋だったが、すべての病床が埋まっているわけではないようだ。  病室に入ると、教えられた奥のベッドに自然と足が吸い寄せられる。仕切りとなったカーテンにおそるおそる手を伸ばし、ジャッと開けた。  そこには、もぬけの殻のベッドと、丸椅子に腰を下ろした父がいた。 「柚一。思ったより早かったじゃないか」 「あ、ああ。だって……」  真翔はどこにいるんだろう。あいまいな返事をしながら空いたベッドを見下ろしていると、「兄貴」と横から聞きなれた声がした。  急いで振り向く。母の押す車椅子に乗った真翔が、病室に入ってきた。 「マ、マナ……」  両親の前ということも忘れ、柚一は震える声で名前を呼んだ。柚一に応えるように、真翔もふっと表情を緩めた。 「心配かけてごめん」  いつもの真翔の声だった。もう聞けないんじゃないかと一瞬でも思っただけに、胸に熱い感情がこみ上げてくる。  真翔は今まで脳の検査を受けていたらしい。  ひとまずすぐ結果のわかる検査からは、何も問題は出てこなかったそうだ。  意識障害や記憶障害も無く、念のため移動するときの車椅子は必須だが、早急に対応すべき事態ではないというのが、医師の見解だった。  真翔とともに医師からの説明を受けた母は、「一時はどうなるかと思ったわ」とホッとした表情で、柚一と父に話した。  真翔の状況を聞いたあと、柚一は脱力して丸椅子に腰かけた。 「はは……なんだよ心配させやがって。すっ飛んできて損した」  ウソだ。本当はすぐにでも抱きしめて、喜びを爆発させたかった。大きな怪我がなくてよかった、意識が戻ってよかったと。  だが両親の前だ。恋人らしいことは控えなければいけない。柚一は油断したら破顔してしまいそうになる顔をぐっとこらえ、奥歯で安堵の喜びを嚙みしめた。
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