好きをわすれないで

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「逃げんなよ。まだ途中なんだから」  べつに逃げるつもりはない。ただ柚一の声には、こちらに有無を言わせない何かがあった。  握り返してきた柚一の手に、自然と意識が向いてしまう。繋いでいると幸せな気持ちになるし、反対に檻に放り込まれる前の囚人のような気持ちにもなる。好きな人の手は本当に不思議だ。  手を繋いだまま肩の力を抜く。柚一は続けて言った。 「このままおまえに逃げられたら、連れてきてもらったくせに文句言ってるただの最低なやつになるだろ。続き……言わせてくれよ」  それまで飄々としていた柚一の眉がわずかに歪む。そこでやっと気づいた。柚一は余裕があるわけじゃない。ちゃんと自分に戸惑っている。意識しているんだ……と。 「イベント事とか、ずっと苦手だと思ってた。でもそういう苦手なモンを、楽しいって思わせてくれたやつがいた」 「それって……」  柚一が寂しそうに笑う。 「『おまえ』もよく知ってるやつだよ」  胸がチクッと痛む。柚一はやっぱりまだ『マナ』の面影を自分のどこかに探しているんだ。同時に思った。ここまで想える相手を柚一から奪ったのは、自分なんじゃないだろうか。  実際は違うと頭では理解できる。でも柚一の痛々しい想いに触れるたび、身を搔きむしりたくなるほどの切なさに襲われるのだ。 「クリスマスの時季にイルカショー見るなんて、鳥肌立つぐらい苦手なはずなんだけど……なんでだろうな」  柚一の手が、より強く自分の手を握り返してくる。 「俺さ、今けっこう楽しんでるかも」 「……え?」  横を見ると、柚一もこちらを向いていた。穏やかな表情だった。  どういうことだろう。尋ねようとして体ごと柚一に向けた、次の瞬間。ザバーンッと水飛沫の音が近くに聞こえた。イルカが跳ねたようだ。プール側に向けていた体半分の服が、豪快に飛び散った水滴によって濡れた。 『わーっ! そこのお兄さんたち大丈夫ですかー!?』  女性トレーナーの割れた声が、マイク越しに会場全体に響き渡る。柚一もイルカが弾ませた水飛沫を、思いきり浴びたようだ。髪や頬を濡らした柚一は、「ははっ」と顔をくしゃりとさせて笑った。  きゅんとする。可愛いと思う。手を繋いでいるのに、もう片方の手も伸ばしたくなってしょうがなくなる。  柚一は声をかけてきた女性トレーナーに、人好きのする笑顔で「大丈夫です大丈夫です」と言ってから、 「濡れちまったな」  とこちらを向いた。  それから立て続けにクシュンッ、クシュンッとくしゃみをした。 「あー……さっむ。てかよく見たらまわりの客みんな雨合羽(あまがっぱ)着てるじゃん。ここ、普通に濡れる席だったんだな」  真翔も左右に首を振って見る。なるほどたしかに自分たちと同じ横列に座る客は、みな雨合羽に身を包んでいた。むしろ丸腰でいたのは自分たちくらいだった。  そうこうしているうちに、クリスマスソングとイルカの跳躍がクライマックスに向けて盛り上がっていく。  天井から吊るされたボールに、ジャンプした一頭のイルカが鼻先で小突いた。同時にクリスマスソングもフィニッシュを迎える。『ハッピーメリークリスマス!』と女性トレーナーの声が会場に割れる。  拍手の波があたりを包む中、真翔も柚一と一緒に拍手を送った。  楽しんでるかも、と柚一は言った。真翔はショーを魅せてくれたイルカとトレーナーに拍手しながら、柚一を横目に見た。  濡れた髪や服、顔を気にすることなく、柚一が笑っている。寒そうだけど、楽しんでる。見ているだけで心がほぐれていくようだった。温かい。うれしい……。  まだ苦い想いは小さいシミとなって消えない。でも、楽しそうな柚一を見ているだけでこちらも自然と笑顔になった。  真翔は破顔してしまいそうになる口元を(こら)えながら、拍手をプールに向ける。隣にいる男の笑顔をもっと見たい。そう思った。
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