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ステンドグラス風の曇りガラスの向こうでは、シャワーの音が途切れることなく響いている。
部屋に入った時は壁に掛けられた最新の薄型テレビが目に入り、部屋全体が真新しく感じたものだ。
でもそれが勘違いだったとすぐに気づいたのは、破れた部分をガムテープで繋ぎ合わせようとした痕のある革製のソファ、そして部屋全体に残る煙草のにおいだった。
意識が自然とシャワーの音へと向かってしまう。それを払うため、真翔はソファの背もたれに寄りかかっていた上半身を前へと傾けた。
低いガラステーブルの上に寝ていたリモコンを手に取る。テレビにリモコンの先を向けて電源をつければ、ごちゃごちゃしたメニュー画面が浮かび上がった。
画面の端に、アダルトビデオの表紙みたいな女の裸が映る。普段なら一瞬でもドキッとするが、今はそれどころじゃなかった。
指の操作を誤り、間違ってAV女優の喘ぎ声を流してしまってはたまらない。見たい番組もなかったので、真翔は電源ボタンを押してすぐにテレビを消した。
「はぁ……」
リモコンをテーブルに戻し置き、倒れるように背中を後ろに預けた。片手で額を覆い、指の隙間からハンガーで壁に掛けられた黒のコーチジャケットに目をやった。
さっきまで柚一が着ていたジャケットだ。結構時間が経ったが、まだ少し濡れているようだ。先ほどイルカのプール側に向けていた左肩の黒が濃い。
その時、キュッと蛇口を捻る音が響いた。同時にシャワーの音も止む。
それだけで、アダルトビデオの表紙にも反応しなかった真翔の体がビクッと弾んだ。咄嗟にスマホを手に取り、黒い画面に目を落とす。
シャワー室のドアが開く。スマホを見る振りをして目を上にやった。男にしては毛の少ない脚が、足裏の水気を拭うためバスマットを踏んでいた。
「待たせたな」
体を拭き終わったようだ。声とともに脚が自分の方へと近づいてくる。ヒタヒタと歩み寄る足音にドキッとする。
「いや、別に待ってない」
つっけんどんな言い方になってしまう自分に、柚一は「あー喉乾いた」とテレビの下にある小さな冷蔵庫を開けた。
柚一によれば、駅の東口から西口へと移動したあと、落ち着いた店で夜ご飯を食べようと思っていたらしい。クリスマスシーズンの土日、カップルや家族連れで混み合う一帯から離れ、飲み屋街の方に移動した方が、落ち着いて食事ができると思った――線路沿いのとんかつ屋の店内で、柚一はそう説明した。
「職員会議の時によく隣になるおっさん先生がさ、ここのとんかつは美味しいってよく言うんだよ」
店に入るまで大人げなくべそを掻いていた真翔も、とんかつを食べる柚一を前にしたら涙も引っ込んだ。
泣いたせいで腹が減ったのか、今まで喉につっかえてた気持ちが腑に落ちたのか……おそらくどちらもあるだろう。とんかつ定食が目の前に運ばれたあと、真翔も無我夢中で箸で掴んだ肉を口に運んだ。
腹が満たされていくうちに、一人で暮らすようになってからいかに自分が食事をおざなりにしていたかを知った。
会計をして店を出たあと、駅の方に向かおうとする真翔の服の裾を引っ張ったのは柚一だった。
「俺アラサーだからさ、腹がきついんだわ。歩くの付き合ってよ」
柚一はそう言うと、夜の線路沿いをゆっくりと歩き始めた。
引き留められたことが、嬉しかった。まだ一緒にいられる。そう思うと、飛び上がりそうなほどに。
今がそのタイミングだ。真翔は「柚一」と前を歩く男を呼び止めた。
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