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「今日はもう一度俺を好きになってもらいたくて誘った」
柚一は目を斜め下に落とし、「……知ってる」とつぶやいた。
「こうやって来てくれたし、手も繋いでくれた」
「あ、あれはおまえがもう少しこのままでいたいって言ったから」
柚一の手は完全に止まっている。その分表情がコロコロと変わり、見ていて飽きない。
「でも払うことだってできたはずだろ」
「そう、だけど……」
気持ちを紛らわせるように、柚一は箱を開ける手を再び動かし始めた。淡い水色のハンカチが、柚一の手の上に乗る。ネイビーの斜め線とブランドのロゴが一角に刺繡された、綿のハンカチだ。我ながら柚一の肌の色によく馴染んでいると思った。
「前に俺の中には、もうマナはいないって言ったけど訂正する。俺の中にマナはいる」
「……っ」
次の瞬間、柚一は堪えるように震える口元を結んだ。目に涙が溜まっていく。
「ご、め……っ。俺、何度も、おまえに酷、こと……っ」
「謝らないで。柚一は悪くないから」
「で、も……っ」
柚一は手の中のハンカチで目元を覆った。静かに涙を流す男の肩が震えている。
真翔の腕は自然と伸び、柚一の肩を抱いた。胸の中にすっぽりと収まった男の体を抱きしめる。小さな嗚咽を胸で受け止めながら、真翔は目蓋を閉じた。
この一年、何度柚一を傷つけただろう。この細い体に、酷い言葉を浴びせてきただろう。けれど後悔してもしょうがないのだ。自分たちは不運だった。しかもそれは、これからの未来に関係ないとは言いきれないだろう。
でも……それでも真翔はこの男と一緒にいたかった。
真翔は目を開けた。
「マナの分も柚一を愛したい。柚一は?」
そう言ったあと、胸の中で柚一が暴れた。「……ッバ、カ」と真翔の腕から体を離せば、柚一はハンカチを握りしめたまま勢いよく立ち上がった。涙を湛えた目が、怒ったようにこちらを見下ろす。
「このバカ……ッ! ふざけたこと言ってんじゃねぇよ! おまえはおまえだ! マナじゃねぇ、加倉井真翔っていう人間なんだよ!」
柚一ははあはあと肩で息をする。ひとつ間を置いてから、静かに顔をくしゃっと歪ませる。
「二人を愛せる器量は……俺にはねぇんだよ」
「……」
「どういう風に俺を好きでいるか、それはおまえの自由だ。でもな、俺は目の前のやつしか見ない」
柚一は続けて、涙顔で困ったように笑った。
「おまえしか……『真翔』しか、愛せる自信がねぇんだよ」
次の瞬間、線路沿いにいた二人の横を電車が通った。電車の連れてきた風が、自分たちの髪や服をなびかせる。車窓から漏れる明かりが、柚一の泣き顔の上を流れていく。
しゃがんでいた脚が伸び、真翔は前へと動く。前のめりになり、少し転びそうになる。電車の音が遠い。目の前の男に、今すぐ飛びつきたい。
外灯の明かりが二人の重なった影を浮かび上がらせたのは、電車が通り過ぎ、静けさが戻ったあとだった。
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