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鼻をくすぐる味噌汁の香りで、加倉井柚一は目を覚ました。
まっ先に視界に飛びこんできたのは、赤いインクがついた自分の親指。昨晩、算数のテストを赤ペンで採点した際に、寝ぼけて自分の指に丸を描きかけてしまったのだ。
うつ伏せに沈んでいた体を起こすため、柚一はダブルベッドに腕を立たせた。ベッドのサイズ的に、本当はクイーンサイズが欲しかった。
だが、四歳下の恋人である真翔が、
「ベッドが広いと、柚一が遠くなる」
と言って、聞かなかった。
冬は温かいので狭いベッドでもいいけれど、夏場となると話が違ってくる。
毎年夏になると、柚一はベッドを買い替えたくなる。男二人で毎晩夜を共にするには暑いからだ。
だが来年こそはと考えているうちに秋がきて、冬になる。そんな一年間を繰り返していたら、柚一の大学卒業と同時に始めた真翔との同棲生活も、気づけば五年が経っていた。
とはいえ、とにかく今は師走なのだ。寒くて布団から出るのもおっくうである。しばらくダブルサイズのベッドで十分か、と柚一は思うことにする。
洗面所で顔を洗い終えてからリビングに行くと、カウンターキッチンの中で「起きれたんだ」と真翔が振り返った。
「起きなかったあとのこと考えたら、起きた方がマシだからな。は~。変な寝方したかも。肩がバキバキいってる」
椅子に座り、柚一は凝り固まった肩をグルグルと回した。
「肩より顎の方が痛いんじゃないか。柚一、昨日歯ぎしりしてた」
「え、まじ? もしかして起こした?」
「いや、ちょうど目が覚めたときに聞こえただけだよ。疲れ、溜まってるんじゃないの」
「まあ、溜まってるっちゃ溜まってるけど、この時期はしょうがないって。むしろ一般企業で働いてる人の方が大変だろ。小学生の採点したり、冬休みの宿題考えたりするのと比べたらさ」
「それぞれの職業にしかない大変さを比べても、しょうがないと思うけど」
カウンターキッチンの中から出てきた真翔が、味噌汁の注がれた茶碗をテーブルの上に置く。今朝は豆腐とわかめの味噌汁に、青ネギを散らした納豆ご飯と質素な献立のようだ。
「相変わらず優しいな〜、マナは。ウチのクラスの保護者にも見習ってほしいわ――とか本人たちの前で言ったら、即効無職になるんだろうな」
「そしたら俺が養う」
「ははっ。まぁ嬉しいけど、おまえが言うと本気か冗談かわかんねえな」
柚一は笑いながら椅子に座る。「いただきます」と手を合わせ、出汁のきいた味噌汁をすする。「ん、今日もうまい」と言うと、真翔は「おかずが全然なくてごめん」と謝った。
「なに言ってんだよ。俺が料理下手くそなばっかりに、やらしちゃってさ。むしろいつもありがとな」
「別に。俺は俺の作ったものを食べてる柚一が、見たいだけだから」
柚一の感謝の言葉に対して、真翔は表情を一切変えずにさらりと言う。よく恥ずかしげもなくそんなことを言えるよなぁ、といつもこちらの方が恥ずかしくなってしまう。
そんな柚一をよそに、真翔は柚一に続いて味噌汁に口をつけた。
もともと真翔は、含みをもたせた言い方や、言葉をオブラートに包むということを知らない。同棲を始めた当初は、表情が乏しいわりに直球な発言をする真翔に、振り回されることも多かった。
だが、五年も一緒にいれば、どんなささやかな変化にも、気づくことができるようになるというものだ。
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