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モブ男は恋に気づかない
あの日、痴漢にあうあの子を助けた。
助けられた事はよかったが、どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのか、今でも後悔している。
あの子はいつも生意気な態度で、でも元気な子だった。それが俺の目にはとても微笑ましく、そして羨ましく映っていた。
それなのにあの時のあの子は青ざめた顔で身体を震わせていた。
そりゃそうだよな。知らないおやじに身体触られて嬉しいやつなんているはずがない。俺だって嫌だ。
俺がもっと早くに気づいてあげられていたら――。
あの子の心の傷を思うと胸が痛い……。
傷つけられていい心なんてどこにもないのに、他人は簡単に傷をつける。
心の傷は目には見えないから気づきにくいが、一生消える事のない傷だってあるというのにそんな簡単な事も分からない。
あの子は人一倍敏感で優しい子なのだろう。
いつも俺の順番を抜かして行く時、あの可愛い顔が苦痛に歪んでいた。
そんなにつらいなら自分を偽る事なんてやめてしまえばいいのに、と思う。
自分だって人から押し付けられた『モブ男』をやめる事も逃げ出す事もできないでいるくせに――。
深い深いため息が出た。
痴漢にあった翌日もあの子はきょろきょろと誰かを探しているようだった。
もしかしたら俺の事を探しているのかも、と思ったがまさか、と思った。
それにもし本当に俺の事を探していたとして、あの子は何を言うつもりなのか。そして俺は何が言えるのか――。
考えてみてもモブ男の俺には分からなかった。
だから俺は、モブ男はモブ男らしく気づかないフリをする事にしたんだ。
全部全部無かった事にして嫌な記憶を早く忘れてもらえるように。
それがあの子の為になると信じて。
珍しく小山が一緒にこのバス停に来た日、あの子の事を責めようとするのを止めた時、すぐにひいてくれて助かった。小山は少しふざけたところもあるが正義感が強く、いいやつだ。俺が不当な扱いを受けると自分の事のように怒ってくれるのだ。
それはありがたい事だけど、今回はダメだ。
あそこで揉めてしまったらまたあの子に嫌な思いをさせてしまうかもしれない。
それに先に乗せてあげたら座れるし痴漢にあわなくて済む。だからあの子は先に行ってくれた方がいいのだ。
*****
八重樫くんは優しくて恰好いい。あんな風に俺の事を気にかけてくれた人は初めてだった。
――いや、ふたり目……か。あの時の綺麗なお兄さん。
あの雨の日にキラキラの王子様の八重樫くんに声を掛けられて、はじめはどうしていいのか分からなかった。だけど、あの時のお兄さんと少し似た雰囲気に、思い切って甘えてみようと思ったんだ。
モブ男の俺なんかがって思ったけど、お兄さんと似た彼なら許してくれそうな気がしたから。
家に行ってみると、風呂に入れてくれたばかりかお菓子までご馳走してくれて甲斐甲斐しく世話まで焼いてもらった。
まるで自分が特別な存在になれたかのようで、ふわふわとして落ち着かない気持ちになったけれど嫌ではなかった。
俺は決して鈍感なんかじゃない。ただ自分が『モブ男』になった日から鈍感なフリをしているだけだ。
モブ男になる前は自分がモブ男だなんて気づきもしなかった。おかげで傷つく事もなかった。
だから俺は今も以前のように何も知らない鈍感を装っている。
そんな事が長く続くと人の心は麻痺してくるものなのか、今では人の親切や好意をうまく受け取る事ができなくなってしまった。
だけど鈍感でいる事は自分を守る為には必要な事だった。期待をしなければ傷つく事もないのだから。
それなのに八重樫くんは俺の心の柔らかい部分を優しく撫でで甘く囁くんだ。
「好き」「大事」「特別」って――。
八重樫くんのキラキラの瞳はずっとそう俺に語り掛けてくれる。
だけど俺はモブ男だから、それをそのまま受け入れる事ができない。
今でも聞こえてくる「モブ男のくせに」って言うあのお姉さんの声。
俺を『モブ男』たらしめた人。
もし、もしもモブ男でも恋をする事が許されるなら……。
そう考えて俺はゆっくりと首を左右に振った。
モブ男の俺に恋してくれる人なんていない。その辺の石ころに誰も恋をしないのと同じだ。
全部全部身の程を知らない俺の勘違いだ。
たとえ本当だったとしても俺は恋に気づかないフリをする。
自分を守る為に。
モブ男の俺は恋に気づかない。
-終- 『恋するモブ男のうしろ側』に続く……。
この話は【まだ 始まらない恋の物語】なのでここまでです。
続編『恋するモブ男のうしろ側』公開中です🦔
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