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バレンタインデーにチョコひとつ
あれは去年のバレンタインデーだった。
朝いつもならまだベッドで夢の中にいる時間、二階の自室のカーテンの隙間からそっと外を窺ってみる。予想通り沢山の女生徒たちが電柱の影や曲がり角に隠れているのが見えた。
それなりの距離と物理的に遮断されているのに彼女たちから感じる圧がすごい。俺は小さく溜め息を吐くと眠い目を擦り、かねてより考えていた計画を実行に移す事にした。
彼女たちには悪いけど絶対にバレンタインデーにチョコを貰うわけにはいかないのだ。去年はついうっかりでひどい目にあってしまった。
俺はトラブル回避の為にプレゼントの類は絶対に受け取らない事に決めていた。年の離れた兄のアドバイスによるものだ。兄も学生時代随分と苦労したらしかった。
まだ俺は小さかったからあまり覚えてはいないけど、兄の困り顔はよく覚えている。まぁでもあの人は逞しいから途中から開き直って、今では立派なモテ男でチャラ男だ。
でも、多分だけど兄は幼かった俺を守る為にチャラ男になったんじゃないかって思う。
特定の彼女を作らずみんなにまんべんなくいい顔をする。
そして彼女たちには必ず『約束』をさせていた。それが守れない人はどんなに可愛くても絶対に兄が受け入れる事はなかった。
『みんな仲良く。家族には絶対に接触しない事』
俺は兄のように器用な方じゃないから兄の真似はできない。
だから兄とは逆の誰とも仲良くしない方を選んだのだ。
特にバレンタインデーは必要以上に気を付けていたのに去年うっかり受け取ってしまった。廊下を歩いていてちょうど手を出したところに小さな箱があり思わず掴んでしまったのだ。
街頭でのティッシュ配りのような絶妙なタイミングだった。
すぐに自分の失敗に気づいたが時すでに遅し。黄色い悲鳴のような歓声と押し寄せる女生徒たち――。彼女たちの手には大小様々な箱が握られていた。
――――あの後の事は思い出したくも無い。
そんな事があり俺はこれまで以上に細心の注意を払ってもう二度と誰からもチョコを貰う事がないようにしなくてはと思った。
誰にも見つからないように俺は勝手口からこっそりと家を出て遠回りをして学校へ行く事にした。
かなり遠回りしてよく分からない場所に出てしまった。
少しでも早く家を出たくて朝ごはんも出べて来なかったからお腹の虫が鳴った。
コンビニで何か買っていくか、と思うが現在地が分からない為コンビニの場所も分からなくてきょろきょろと辺りを見回す。
「どうかした?」
いきなり背後から声を掛けられ、驚き振り返ると同時にまたお腹の虫が大きく鳴った。
振り向いた先に立っていたのはほんわりとした空気を纏った穏やかな顔の若い男だった。
花柄のシャツを着ていて男によく似合っている。
男は俺のお腹の音に一瞬だけ目を丸くしてくすりと優し気に目を細めて笑った。
そして肩にかけていたリュックからごそごそと何やら取り出して、それを俺の手に握らせた。
「え……」
「ごめんな。今そんなもんしか持ってないや。もしもっとがっつりしたものが欲しかったら向うに行った先にコンビニがあるからそこで買って?んじゃ、俺バスの時間あるから」
男はそれだけ言うとすぐ近くのバス停に向って走り出した。
「――あ、あのっ! ありがとうございましたっ!」
俺は小さくなっていく男の背中に大きな声でお礼を言った。
男は振り返り、嬉しそうに笑い手を振るとすぐにバスを待つ人の列に加わった。
たったそれだけの事だった。
俺はバスに乗り込む彼の後ろ姿を見送りながら胸がとくんとくんといつもと違うリズムを刻むのを感じていた。
俺の手には小さな包みのチョコがひとつ握られていた――――。
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