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③
さすがにこれ以上嫌われてしまう前に今日こそはお礼を……と前もって何度も練習をして臨んだ日、その日は前日の夜から続く雨で地面はぬかるんでいて滑りやすくなっていた。何もこんな雨の中……と思わなくもないが、折角した決心が揺らいでしまわないように予定通り決行する事にした。
滑らないように細心の注意を払っていたはずなのに、モブ男に近づきあと少しというところで滑ってしまった。
傾いていく自身の身体。
あっ! っと思った時には誰かに抱き込まれていて、一瞬であの時の恐怖に引き込まれ身が竦んだ。
真っ黒に塗りつぶされた男の顔。生ぬるい嫌な体温。耳元に感じる気持ちの悪い息遣い。全身に纏わりつく嫌な感触が鮮明に蘇る。
震える身体は冷たく、はくはくと息もできずに口だけが無意味に動いた。
どこまでも暗い真っ暗な闇の底に引きずられていく、そんな感じがした――――。
「――おい、大丈夫か?」
闇に飲み込まれそうだったオレの耳にふいに入ってきたその声。一瞬で現実に引き戻された。
恐る恐る顔を上げるとそこには、モブ男のいつもののんきな顔があり、ほっと息を吐く。
と、同時にオレの頬はぶわりと赤く染まった。
モブ男に抱きしめられていたのだ。
モブ男だって決して大柄なわけじゃないのにすっぽりと収まってしまう自分の小さな身体。
あんなに嫌だったのに今は、今だけは嬉しい……。
ねっとりと纏わりついていた嫌な記憶がじわりじわりと塗り替えられていく。
思わずモブ男の胸に頬をスリリとしてしまいそうになりハッとし、オレは慌ててモブ男から身体を離した。離れていく温もりに寂しさを覚えるがずっとこのままというわけにはいかない。
身体が離れても、抱きしめられていた事や自分がしようとしていた事が恥ずかしくてモブ男の顔を見る事ができなかった。
またお礼も言えず黙って俯くオレにモブ男は、
「汚れなくてよかったな」
なんてお人よしな言葉をくれる。
なんだよそれ。なんなんだよ。
オレなんかを庇ったせいで自分はズボンをドロドロにさせているくせに。
モブ男の優しさに心がじんとして、じわりと涙が浮かぶ。
それを隠したくて悪態が口から零れた。
「ダサ……」
すぐにしまった! と思うが、一度口から出てしまった言葉を取り消すなんて事はできない。お礼を言って謝るつもりがまた悪態をついてしまうなんて……っ!
いよいよ合わせる顔がなくて、オレはそのままモブ男を置いてバスに逃げ込んだ。バスの窓からモブ男が汚れてしまったズボンを見下ろして途方に暮れている姿が見える。
オレのせいでごめん、なさい……。
素直になれなくてごめんなさい。
いつもいつもごめんなさい――。
――助けてくれて……ありがとう……。
そう心の中で何度も何度も呟いた。
他のお客もバスに乗り込んで、モブ男を残したまま定刻通りにバスは発車した。
小さくなっていくモブ男に誰かが近づいて傘をさしかけているのが見えた。
オレがやりたくてやれなかった事。――いや、やらなかった事……。
ふたりが並んで歩く姿を見て、初めてオレは自分の本当の気持ちに気がついた。
何で抱きしめて欲しかったのか――――。
これは憧れなんかじゃない。
――――オレはモブ男の事が好きなんだ。
じゃなければ他のヤツと連れ立って歩く姿にこんなに胸は痛まない。苦しくなったりしない。
ぎゅっと拳を握り胸を抑える。
自分が情けなくて――――大嫌いで……自分の愚かさに心の中で涙が零れた。
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