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③
どんな相手に対してもあんなに親切な彼がどうしてこんなにも他人からの好意に慣れていないのか――。
思えばさっきだって泥だらけの彼を誰も助けようとはしてくれなかった。
彼もそれが当然だというような顔をして、ただ困ったなと汚れてしまった自身のズボンを見下ろしていた。
最初は彼がただ優しいからだと思った。
優しいからいくら自分が親切にしても決して見返りを求めないのだと思った。
だけどどうやら違ったようだ。
――そうあれは……自信がないのだ。誰かに愛される自信が。
なぜそうなってしまったのか分からないが、世間での彼のイメージの『モブ男』が関係しているというのなら怒りすら覚える。
確かに彼は平凡な見た目かもしれない。
だけど俺はこんなに心の美しい人を見た事がない。
こんなに他人の事を思いやれる人を見た事がない。
――これのどこが平凡だというのか。
冗談ではなく本当に彼は天使なんだと思う。
意地悪な悪魔の呪いのせいで魂の本来の輝きが他人には見えないようにされてしまった天使。
それは彼自身にも及んでいて、どれほど強力な呪いなのだろう。
だけど俺にはその呪いは効かなかった。だから俺は彼の呪いを解く事ができるんだ。
物語のようにキスひとつで呪いが解けるなら今すぐにでも解いてしまいたい。
だけど、そんな簡単な事ではないだろう。もっとちゃんと彼に分からせなければ。
もしも俺の心が形として目に見えるのならもしかしたら話は早かったかもしれないけれど――――。
あなたが好き。
あなたが必要。
あなたは特別。
それができないのだから別の方法であなたに俺の心を伝えたい。
「好き」だと言葉でいくら伝えても今はまだ信じてはもらえないだろう。
時間がかかってもまずは人の親切や好意を受け取る事に慣れてもらって、それから――――。
「いえ、洗濯中の服を乾かすのに時間も要りますし、このお菓子も遠慮なく食べてください。母の手作りなんで少しくらい不味くても許してくださいね。もし、コーヒーも紅茶も苦手でしたら他の飲み物もご用意できますよ?」
できるだけ軽い口調でなんて事ない風に言うと、彼は少し慌てはしたが最後には受け入れてくれた。
「――あ、違う、んだ。苦手だなんて事はなくて……ありがとう。――じゃあ紅茶貰ってもいいかな?」
「はい」
こうやって少しずつでも人からの好意を受ける事は普通の事で、『モブ男』だと蔑ろにされていい存在ではない、俺の大好きなあなたであると分かってもらいたい。
大好きで大切で特別なあなた。
まずは心を込めて紅茶を淹れよう。
しっかりと手順を踏んで、彼に目でも楽しんで貰えるように少し大げさなくらい優雅に紅茶を淹れる。
実はうちは母親が甘い物に目がなくて、一緒にいただく紅茶やコーヒーに関しても煩く、小さい頃から身近にあった物だったから自然と俺も親しんでいった。
手作りのお菓子もさっきは遠慮して欲しくなくてあんな風に言ってしまったけど、本当はプロ顔負けの腕前だ。その辺に売ってるお菓子より断然美味しい。母に聞かれてしまったら今日の夕飯はごはんに梅干しひとつって事になりかねないところだが、いないのでセーフ。まぁ理由を話せばうちの母親の事だから許してはくれそうだけど。
広がる紅茶の香りを胸いっぱいに吸い込み、俺の中に生まれた少しの悲しみや怒りも僅かではあるが癒された気がした。
彼にとってもこの香りが癒しになればいいのだけど……。
「――どうぞ」
カップは彼のイメージに合う柔らかな絵柄の物を選んだ。
小さな猫を模った砂糖とミルクを添え彼の前に置く。
「ありがとう……」
砂糖で作られた猫に瞳を細め、おずおずとカップに口を付けた。
コクリと紅茶を一口飲むと彼はほぅーと息を吐く。
その表情は穏やかで柔らかい。いつもの彼だ。
視線で「どうですか?」と問えば、彼は瞳をキラキラと輝かせて花のように笑った。
まるで茶葉が開く時のようなそんな感動を覚え、心が震える。
「――なんだかキミ……執事みたいだ。まるで自分が……特別な存在になったみたい……」
そう言って彼は恥ずかしそうに口角を少しだけ上げた。
――――俺が執事。
そうであれば俺は死ぬまであなたのお傍で仕える事ができる。
何かに怯えるあなたを守り、支える事ができる。あなたの為に生き、あなたの幸せをすぐ傍で見守り、あなたが特別な存在であると伝え続ける事ができる。 ――夢のような話だ。
だけど、俺は欲張りだから執事としてではなくもっと別の立場であなたの傍にいたいと願ってしまう――――。
*****
彼はお菓子や紅茶を楽しみながら俺との会話も楽しんでくれた。
明るく笑う彼の声が今も耳から離れない。
彼がさっきまで座っていた空のソファーを見つめ考える。
嬉しい事に今日のこの時間だけで、少しだけ彼は好意を受ける事に慣れてきたように思う。こうやって少しずつでも彼が受けるべき物を受け取る事に慣れてくれたなら――。
――あ、名前……。
彼が帰ってしまってから気づく己の失敗。
名乗りもしなければ彼の名前を聞きもしなかった。
あんなに長時間一緒にいたというのに――。
俺たちの関係は未だ名前も知らない『知り合い』程度だ。
彼の『一番傍』はまだまだ遠い。
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