母の肖像

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「はい、チーズ」  スマホのシャッター音が静かな病室内に響く。  窓の外には、見ているのも息苦しいような真冬の黒く塗りつぶされた夜が広がっている。  これで何枚目の写真になっただろうか……?  すぐにスマホを操作して、写真がきちんと撮れているか確認する。  ベッドに背をもたれかけブイサインをして微笑む妻と、妻の胸に抱かれる息子の写真……。  うん、よく撮れているようだ。  妻の胃に癌が見つかったのはふた月前。長男を出産して、たった三か月目のことだ。  どうも体調が優れないと感じ、ある日曜日、一人で病院に行き精密検査を受けた。  担当医から俺あてに連絡があり、すぐに病院に来てほしいと言われた。  診察室で会った妻の顔は別人のように青ざめていた。  医師は患者本人にも病状を告知するのが主義だった。ステージがかなり進行した癌だと説明してくれたが、俺は上の空だった。  妻は心底、恐怖していた。それは自分が死ぬことに対する恐怖ではなかった。  生まれたばかりの息子を残して逝くのが怖くて悔しいの……。妻はそう言った。  俺は肩を落としている妻に何も言ってやることが出来ず、そっと肩を抱きしめるだけ。  胃癌が発覚したその日、俺は妻のたっての希望で、家電量販店に行って最新のスマホを買ってきた。 「この子に母親の写真だけでも残してあげたいの。これから私が死ぬまで毎日、写真を撮ってよ」  元気のない声と笑顔で妻は言う。 「おいおい、縁起でもないこと言うなよ。死んだりしないよ」  元気づけてやりたくて、ホームドラマのようなセリフを口にする。  日中の息子の世話は母が手伝ってくれることになった。  それから俺は毎日、仕事を終えると息子を車に乗せ、真っすぐ病院に足を運んだ。  そして、一歳にも満たない我が子を抱く母親の像を撮りつづけた。  やっと桜が蕾をつけ始めた、ある夜。  俺は職場のオフィスにいた。残業があって遅くまで居残っていた。  スマホがポケットの中で鳴る。嫌な予感が胸をよぎった。  画面には登録しておいた「N病院」という表示。  スマホを持つ右手が汗まみれになっている。  電話の相手は、若い女性だった。  奥様の体調が急変しました……すぐに来てください……。  彼女は、深刻そうな声でそう告げた。上司に断り、俺は病院に駆けつけた。  妻は集中治療室にいた。すでに意識がなく、酸素マスクをつけられていた。  担当医は険しい表情で言った。 「あまり良い状態とは言えません。万一のときの覚悟をしておいてください」  治療室の前の廊下の椅子に腰かけ、手を組んで神様に祈った。  どうか死なせないでください、お願い……お願いします……。  まるで無間地獄のように感じられるほど時間が経った気がした。  治療室から出てきた医師は悲しげな顔で言った。 「もう手の施しようがありません。最後にお会いになっておいてください」  部屋の中央に置かれたベッドに寝かされた妻。まるで眠っているようだ。  苦しんでいないのが、せめてもの救いだろう。  手を握ってやると彼女の温もりが伝わってきた。  俺は声をあげて子供のように泣いた。  祈りもむなしく、しばらくして妻は帰らぬ人となった。  妻の写真は全部で三百枚を超えていた。  俺は全ての写真をプリントアウトした。一枚一枚に温かい思い出がある。  妻が病室のベッドで力なく笑っている写真がある。これは癌が見つかってすぐだったはずだ。  妻がベッドに体を預けて、目を閉じている写真もある。これは俺からのサプライズだった。  妻に内緒で、こっそり病室を訪れたのだ。その時、妻は眠っていた。俺はスマホで妻の寝顔を撮影した。撮影時のシャッター音で妻はパチッと目を覚ました。妻は寝顔を撮影されたことに少し怒っていた。 「どうして人の寝顔なんて撮るのよ」 「だって可愛い顔してるんだもん。これも記念さ。いい記念になるよ」  実はその時、妻が頬を膨らませて怒っている顔も、密かに写真に収めていた。彼女がその写真を見たら、もっと怒るだろうと微笑ましく思ったものだ。  しかし、もう妻はこの世にいない。怒ることさえ出来ないのだ。  スマホの画面の中で日ごとに衰弱していく妻と、少しずつ成長していく長男の姿に涙を流していることもしばしばだった。 「はい、チーズ」 「パパ、上手く撮れた?」  妻の死後、五年目の春がやって来ていた。  俺は大きく育った息子を毎日、あのスマホで撮影しつづけた。  妻の写真を初めて息子に見せてやったのは、四歳の誕生日だった。  息子が初めて画面の中の母親と対面した時の第一声は「きれいな人」だった。俺もそう思う。  あのスマホは今では息子の成長を毎日、記録するために使われている。  一度、息子に例の妻の怒った顔の写真を見せたことがある。あの寝顔を撮られた時の写真だ。  息子は「ママ怒ってるの?」と俺に訊いた。 「ああ、プンプンだ」とおどけて答えた。 「でも、きれいな人だね」と息子が言った。 「ああ、パパもそう思うよ」  俺は大きく頷いて息子に同意した。  自宅の窓から見える近所の公園の桜の木には、妻との別れの時を思い出させるような桜の蕾がつき始めていた。
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