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あまりに偉大すぎる『父親』。では何故、北斎は『自分より腕が劣る』と分かっている応為に代筆をさせたのだろか。
「せやけどな」
ズズ……と、親父が湯呑のお茶を啜る。
「そんな北斎にも『弱点』があったんや」
「ええ? 北斎に?」
信じられないというか。
「人物というか、生き物全般について、北斎は『引け目』を感じておったらしい。晩年近くになって『この歳になって猫一匹、ロクに描けない』と泣いたという逸話があるんや」
それは、応為が直接に見ていたらしい。多分それは『北斎としてのレベル』に達しないという意味だろう。
「特に『女性』は苦手だったらしく、『遊女については応為の方が上手だ』と言っておったらしいな……」
だからこその、代筆。
不完全でも自分の作品を出すのではなく、自作でなくともより良い作品を出すという姿勢。
北斎にとって応為という存在は、単に愛娘というだけでなく、己の不足を埋めてくれる貴重なパートナーでもあったのだろう。
「名前を貸して弟子に作らせるちゅうのは、別に珍しい事やない。彫刻でも例えば善光寺の仁王像は『高村光雲作』とされとるが当時すでに光雲は70近い高齢で、とてもあれほどの大作を作れる体力はなかった。せやから実際には弟子の米原雲海と、孫弟子の石本暁海が彫っとるんやで」
仏像彫刻は、大まかな切り出しこそが最も技量を問われる。だがそれだけのノミを振るうには強さに持久力を伴う筋力が必要なのだ。
「ま……監修はするだろうがな」
「だから『あの遊女』も、応為が描いたと?」
「ほぼ間違いなかろうて」
自分の分の食器をシンクに放り込み、親父は自室へと戻っていった。
「ち……自分の使った食器くらい、自分で洗えっつーの」
ぶつぶつ文句を言いながら、水道の蛇口を開ける。
「偉大過ぎる父を持った娘、か……」
それは想像を絶する『格差』だったに違いあるまい。何しろ相手は世界の美術史に多大な影響を与えた大芸術家なのだ。
そんな父を、応為はどう受け止めていたのか。
北斎の門弟が、晩年の北斎をスケッチした絵が残っている。病の床に伏せる北斎が、それでも枕元に置いた紙に絵筆を走らせている様子。
そして、その様子を少し離れたところから応為と思われる女性が少し冷ややかな眼差しで見つめている。
そばで看病するでなし、無視をするでなし。『放っておけばよい』と言わんばかりに。
一説によると『応為』という雅号は、父・北斎がお栄の事を『おーい、おーい』と呼んだ事の洒落だという。
応為は型破りな父親の傍で、ずっと生活と画業を支え続けた。
まさに、その雅号が示すとおり『応ずるが為』だ。
その時代の価値観を現代の基準で測るのが適当ではないにしろ、彼女はそれで満足だったのだろうか。例え腕は父に劣るとしても、『自分の道』を歩くために独立しようとは願わなかったのだろうか。
……今の自分は、どうなんだろうか。
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