美容室

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 最初はイヤだと思っていた。  木村寛(きむら・ひろし)の家の近所にあった理髪店が店主の高齢を理由に廃業した。この辺りで住宅街の少し外れにある、ただ一軒の理髪店だった。需要からいえば、十分に食うに困らないくらい男客が来ていた店だった。開業して50年に迫るというから、近所の男たちは相当数が、ほんの小さいころからこの理髪店に行って散髪してもらっていただろう。そう、散髪なんていうことばはめったに聞かなくなったが、この理髪店の古びた木造の色合いや、田の字で磨りガラスの窓や、頼りなさげな年寄りの店主や、その店主がハサミを握ると一転して素早く正確に髪を切り始める姿は、まさに散髪ということばに相応しい風情をたたえた店だった。  寛はもうすぐ17になる高校生だが、彼も生まれついてずっとこの理髪店へ通っていた。ほかの店で一度も髪を切ったことは無いし、ほかへ行ってみようと今まで思ったこともない。  その理髪店が無くなるというのだから、代わりを探さなければならない。そうなるとまず思いつくのは、駅前まで足を伸ばすことだ。けれど、駅前の辺りで理髪店を見た覚えが無かった。  そんな風に、寛がどうしようかと、少しだらしなく伸びてきた自分の髪をいじりながら考えていたとき、母親が言った。 「遠くに行くのがめんどうだっていうなら、飯田さんの美容室に行けばいいじゃない。あそこも、お母さんの恵子さんの代で廃業かしらと思っていたけど、娘の結子さんが美容師になって、どこかの有名なお店で修行をして帰って来て、お店を手伝い始めてさ、今はお母さんよりうまいって評判よ。恵子さん、鼻が高いって嬉しがっていたわ」  この、寛の母親が言った美容室は、廃業した理容室より少し新しいが、それでもけっこう古い建物で、理容室同様に、この近所の女性たちの髪を一手に引き受けているような店だった。寛の母親も、寛があの理髪店以外に行ったことが無いのと同様、この美容室以外に行ったことが無いのだった。 「あそこは、女の人が行く店じゃないの」寛がぼそりとそう言うと母親は笑って、 「今どき、そんなこと言うかね。若い子はそんなこと気にしないでしょうに。自分の学校の友達に聞いてご覧よ。美容室に行っている子も珍しくないでしょうよ。それに今は、どこの美容室だって男女関係なくどうぞ、って看板出しているのがふつうだし、飯田さんところの美容室も、ちゃんとそういう風に書いてあるよ。娘さんの結子さんが帰って来たときに、お店の中をずいぶん改造して、店の見た目は前とあまり変わらないけれど、中はむかしとはずいぶん変わったわ」  木村寛は、どこで自分の髪を切るべきか、ずっと考えていた。「切らなければ」と感じてから、もうさらに2ヶ月が過ぎていた。その間に、駅前に理髪店が無いか見て回ったが、今はどこも母親が言うように美容室と兼ねている店ばかりだった。それなら近くのあの飯田さんの美容室でよいかと思った。けれど、物心ついたころから「あの店は女性が入る店」と思い込んで生きて来た寛には気が引けた。 「おまえ、髪はどこで切ってるの?」  学校で友人何人かに尋ねたが、皆、行きつけの美容室であることを教えてくれた。髪型がオシャレであるとか最新流行であるかとか、そんなことには縁が無さそうな連中でも、行くのは美容室であるらしかった。 「そういえば寛、ずいぶん髪伸びたな。伸ばしてるのか?」そう言って友人は笑った。 「おまえ、顔が優しげで線が細いから、髪を伸ばしても似合いそうだよな」そうも言った。 「美容室って言うのがナァ」  寛が、そう言って、自分が通っていた理髪店が廃業してしまった話や、美容室に入るのは自分にはどうも抵抗があるということを言うと、友人たちは、「そんなつまらないこと気にするなよ」とケラケラ笑った。そして、 「だったら運動部の奴らみたいにバリカンでサッパリ刈ってしまったらどうだ?」と言って、また笑った。「なんなら、俺が刈ってやろうか?」とも言ってからかった。  そういうことがこの2ヶ月間にあって、寛は「これは、自分の髪を切ってもらうには美容室に行く以外には無いと気持ちを決めた。  それで今度は、美容室とはどんなものか、ということを考え始めた。「行くなら、飯田さんの美容室だろう」と思った。店を知っているし、店主のおばさんも顔を見れば挨拶くらいはするていどには知っている。1年ほど前に帰って来たという、娘さんのことはよく知らないが、顔を見たことはあった。 「まずは、知ることが大切だ」  寛は、空いた時間を見て、飯田さんの美容室の前の道を歩いてみた。そして、それとなく店の中をうかがいながら通りすぎた。その時初めて飯田さんの美容室は「美容室 飯田」という名前で看板を出していることに気づいた。あとで母親にその看板の話をすると、 「あと1年くらいしたら、店を建て替えて、店名ももっとしゃれたものにするんだって、言ってたわねえ」  寛の母親は、自分の息子が美容室に行くことで葛藤していて、時折こうして質問して来るのをおもしろそうに楽しんでいるようだった。  それからも時々、寛は美容室飯田の前を通りすぎながら、横目で中の様子をうかがった。客層を見た。「男客はいるか?」それは重要な問題だった。そしてどうも、3人に1人くらいが男客であることに気づいた。そのことは寛をとても勇気づけた。やはり、みんなの言うとおり、気にすることでは無いのかと胸をなで下ろした。そう思うと、気楽になって、ほかの部分も見えてきた。店の前に小さな黒板が置かれていて、営業時間や休店日などが書かれていた。新しい髪の手入れの仕方を宣伝するポスターなどもあった。髪型の写真がたくさん見えた。 「そういえば俺は、あのおじいさんの理髪店に通っていたとき、髪型をどうしてくれというように、頼んだことがない」そう思った。寛は小さいときからあのおじいさんの理髪店に、母親に連れられて行っていた。そして髪の切り方の具合は、いつも母親が店主と話して決めていて、それがそのまま習慣になり、寛が一人で理髪店に行っても店主が、「いつもと同じでいいかい?」と聞いてきて、寛は「はい」と答えているだけだった。考えて見れば、男にだって当然、いろんな髪型が出来たはずだが、今まで寛は、そういうことを考えたことが無かった。  寛は、コンビニで数冊の雑誌を買った。美容室についての情報源になりそうな本を選んだ。そういう本を見ながら、インターネットで情報を見たりした。髪型というのが、自分が考えていた以上に奥深いものだと言うことが分かってきた。 「ふぅん……」  寛は部屋で雑誌を見ながら嘆息を漏らした。 「おっきな溜息ネェ」  母親が部屋の外から声を掛けて引き戸を細く開けて、その間から顔を横に向けて両目だけを見せて、 「まだ切らないの?美容院に行くのは決めたけど、今度はどんな髪型にするかで悩んでるの?。……でも、あんた、そんなに悩んでも校則に引っかかるような髪型にするのはやめなさいよね」 「うぅん。分かってる」 「どんな髪型になるのかしら。楽しみネェ~」  母親は、寛が一瞥するとスッと扉を閉めて、ウホホホと笑いながら遠ざかって行った。  寛は、髪型について、ふだんに勉強する以上に調べた。そうしているうちに、髪型が人の印象を決める要素になり、自分の主張にもなることを感じ取った。今まで、「校則に触れるかどうか」と言うくらいのことしか考えていなかった彼には、画期的な変化だった。自分というものを表現するための髪型。主張する髪型。そういうことを考えたことがなかった。もし校則に反する髪型にするとしても、どんな形で反するかという問題を感じた。  それらのことを考え、髪型の写真や解説を読むうちに、頭の中に迷いが渦巻き、自分が一体どうしたいのかが分からなくなってきた。そして本を抱いたまま、少しの間眠ってしまった。  彼が目を覚ましたとき、頭がスッキリとして、絡み合っていた様々な考えがひとつの形を作って整理されていた。  寛はその日、学校が引けて家に帰ってからしばらくして、「行ってくる」と母親に告げて家を出た。母親は、平日の学校のあとにしかもわざわざ19時まで時間を待って、目と鼻の先にある美容室へ出かける息子を見送った。それが、平日の閉店間近で客がいないのを見越した、寛の策であることはすぐに分かった。キッチンに立っていた母親は、寛の背中を見送り、 「フフ。どんな風になって帰ってくるか、たのしみ~」と独り言を言った。  美容室飯田の店の前に差し掛かった。彼の髪がいい加減、伸びて無様にまで見えて「髪を切るように」と母親に言われ、友人に言われ、高校の担任にも呼び止められて言われた。もう、ここで切らなければならないところまで来ていた。そして、実行するなら今日しかない。狙い澄まして家を出て来た。  店の少し手前からそっと中の様子を見た。 「今だ!」  寛は足を速めて美容室のドアの前まで行き、もう一度、店の中の様子を見た。「よし、思った通り客はいない」思い切って美容室飯田のドアを引き開けた。  リリンと鈴のような音がして、店の奥のカーテンの向こうにいたらしい人が、サッと出て来て、 「いらっしゃいませ」と晴れやかな顔で寛に挨拶した。出て来たのは、美容室飯田のお母さんの方ではなく、娘結子の方だった。 「こちらへどうぞ」  結子は、3つ並んだ椅子の真ん中の席に寛を誘導した。寛は緊張しながらもそうと見られないよう歩いて椅子に座った。寛が座ると、結子はすぐに寛の髪を見定めるように鋭い目で見た。男性客で、サラリーマンとか学生であれば、ある程度お決まりのパターンがある。複雑なことはしない。そういうことを念頭に、以前の髪型がどういうものだったかを予想すれば、寛が前に通っていたおじいさんの理髪店と同じく、「いつものように」で済むのだった。だが、今の寛の髪は、切ろうと思い立ってから、またさらに3ヶ月近く放置したのだ。伸び放題に伸びている。髪型の原型はもはや結子にもよく分からなかった。 「どんな風になさいます?」  結子のそのことばを待っていた。 「あぁ。こういう風にしてもらいたいんですが……」  寛は丸めた雑誌を両手で握りしめていた。その雑誌の1つのページに左手の人差し指を挟んでいて、それを広げて結子に見せた。結子は、それが「きっと男性俳優とかの写真」と思って雑誌に目を落とした。 「ええっと……これは」  結子は意外なものを見て声に動揺が出てしまったのを隠そうとした。寛も、結子がそういう声を出したので、「まずい」という気がしたけれど、それはある程度予想できていた。 「これは、女の子、よね」  寛が見せたのは、ヘアスタイルを見せる女の子の写真が載ったページだった。その女の子のヘアスタイルは、ボーイッシュなショートヘアだった。 「こうしたいんですが。ダメですか……?」  結子は、気を取り直して、キリリと引き締まった表情になり、寛の示すヘアスタイルの写真を見た。そして、寛の髪の毛に確認するように手を触れた。 「髪は十分長いし、髪質も素直でとってもいいから、この髪型に出来るけど。ほら、これ女の子だから、この辺り、襟足とか、男性で似たようなカットにするよりも長めだったりするの」  結子がそう言って別の所から、男性モデルの似た感じのヘアスタイルの写真を持ってきて寛に見せた。 「これではどう?」  それを見せられて、寛は少し、結子のその念の入った、「そのほうが、後悔の可能性は低いだろう」という感じの提案を受け入れようかと思ったが、これまで下調べをして候補を絞り、コレと思って決めたのが今、自分が結子に提示したヘアスタイルだったことを思うと、どうしても譲れない気がした。その気持ちをなるべく受け取ってもらえるよう、寛は結子に話した。すると結子も納得して、 「じゃあ、そうしましょう!」  最後は明るくそう言ってくれた。  結子は、寛の髪を素早く丁寧に、流れるようなハサミ裁きでカットした。それは寛がおじいさんの理髪店で感じたことのない感覚だった。それに今になって、店の中に漂う香りが理髪店とはまるで違うことに気づいた。それは、丸みのあるふくよかな香りだった。そして少しだけ「母さんの香り」も感じた。  寛はそんなことを思いながらされるがままに髪を切られて行ったが、その間に目の前にある大きな鏡を見ることがなかなか出来なかった。鏡に映る掛け時計の時間をずっと見ていた。自分からは目を背けていた。  結子は寛の髪をカットするうち、「この男の子は、髪自体の質もいいが、顔の形や雰囲気がこの髪型に合っている。とても似合うわ」そういう思いを深めていって、しだいに一層熱心に寛の髪型を整えていった。 「できました」  結子にそう言われながら、鏡で自分の姿を確認するよう促されても、鏡に映る自分を見て「いい」と思うことができなかった。鏡の中の自分から目をそらしたまま生返事で、 「ありがとうございます」  そう言って立ち上がり、「早く帰りたい、店を出たい」と思った。  寛は店のドアの近くまで歩いたとき、ちらりと鏡で自分の立ち姿を見て、ハッと我に返った気がした。これが自分かと思って目を見張った。「この髪型にしよう」と決めたときから、現実にその髪型になってそれを見た今、自分の胸の奥で何かが変容する違和感と変化する驚きとを同時に受け止めていた。 「よく似合ってて、ビックリ」  驚いている様子の寛に、結子も声を弾ませた。  店の外に出た寛は、自分の中に湧き上がった感情を抱えたまま、もう日が暮れた道を脇目も振らずに家まで走った。何かが自分を待っている気がした。一人になりたかった。何ものにも囚われず、鏡の前で一度髪をめちゃくちゃに掻き毟って、それから自分の手で好きなように直したいという衝動を持った。  明日という日をこれほど楽しみだと思ったことがなかった。
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