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潜は首を横に降り「嫌だ」とこたえた。
「なんだ、それも嫌だというのか。お前はほんとうにわがままな奴だな」
「わがままはどっちだよ」
小声でつぶやいたつもりだったのに、周は耳ざとくそれを聴いて、「なんだと」と凄んだ。
「ひっ」
恐怖で変な声が出た。今度こそ本気で怒らせた。潜はいつ周が飛びかかってくるかとびくびくしながらも、後ずさりしながら言った。
「お前のためにうたう歌なんかないよ」
すると周はまた鼻を鳴らした。
「私のためになどうたわなくてよい。お前の好きなあの猿人のことを想ってうたえ。そういう歌が聴きたい気分なのだ」
友一郎のための歌なら、声が枯れるまでいくらでもうたえる。けれども、それをわざわざ聴きたがる周はなんなのかと、潜はいぶかしんだ。
『あ、でも飲み会の夜にうたった時、人間たちは喜んでくれたな。それと同じようなものかな』
周はすっかり聴く体勢になっている。潜も好きにうたっていいならうたいたい気がしてきた。すぐそこで周が聴いているのは無視して、星空に向かってうたえばいいのだ。
潜は星々を見上げてうたった。男の人魚たちといるよりも、友一郎ただひとりとずっと一緒にいられたらと思いながらうたった。友一郎が人魚だったらよかったのに。それとも自分が人間だったらよかっただろうか?
うたい上げてふと砂の上に視線をおろすと、いつの間にか周は潜に背を向けていた。
「寝ちゃったの?」
と潜が聞くと、
「起きている」
と不機嫌そうな声で周はこたえた。そして周は背を向けたまま、のろのろと身を起こした。
「叶わぬ恋の歌を朗々とうたい上げるなど、お前はほんとうに馬鹿だな。それをわざわざ聴きたいと思い、うたわせる私も、大概だが。さ、もう帰るぞ」
周は潜に手を差し伸べた。だが、ここに来たときとは違い、周は潜から顔を背けて手だけ差し出してくる。一体なんなんだと思いながら、潜は周の手に手のひらを重ねた。途端にものすごい力で手を引かれ、たちまち潜は周の腕の中に倒れこんだ。硬い胸板に潜は鼻をぶつけてうめいた。踵が砂地を離れる。
肋骨がみしみしと軋むくらい、周は強い力で潜を抱きしめる。だが、周がしてきたことはそれだけで、この入り江に来たときと同じように、周は潜をかかえたまま泳ぎはじめた。
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