友一郎 ⑫

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 雨脚はいつまでたっても弱まらない。友一朗はしかたなく靴を履き替えて滝のような雨の中にふみ出した。その時、ドボンとアスファルトの地面が抜けた。体はどこまでも沈んでいく、友一朗は必死にもがいたが、沈んでいく一方だ。ごぼりと息を吐いたら、その分水が肺の中に入った。もうだめだと観念して友一朗は目を閉じた。  ついっと肘から前腕にかけてを、なにか細いものが這っていった気がした。友一朗は触れられた腕を動かして、それをつかもうとしたが、逃げられてしまった。  友一朗は目を開けた。 『大翔?』  すぐ目の前に人の顔があった。親友によく似た、美しいかんばせ。だが目や鼻に不思議な紋様が描かれている。人魚だ。幼い頃に、母に連れられて行った、水族館で見た人魚。 『いい、友一郎』  どこかからともなく、母の声が聞こえてきた。 『本物の人魚というのはね、美しく、気高く、そして自由で……』  母に連れて行かれた水族館で初めて人魚を見たとき、友一朗は胸に『人魚姫』の絵本を大事にかかえていた。つぎはぎだらけのその絵本は、父の家に住んでいたときに祖母が買ってくれたものだった。母と二人で半島の町に移り住んだときにも持ってきたのだが、母はなぜか息子の前でそれをびりびりに破った。そして本物を見せてあげると言い、平日の昼間から水族館に行ったわけだ。絵本の人魚は上半身が人間で下半身が魚だったが、本物の人魚には人間と同じように手足が二つずつあった。だが、ガラスごしに見た人魚のかんばせは人間そっくりなのに、両生類のように謎めいて見えた。  人魚は口の端をくるんと丸めて笑った。大きく開けられた口には鋭い牙がまばらに生えていた。大きく開かれたの口の奥の、喉の入り口が閉じられているのが見えた。人魚は口を開けて喉を閉じたままキュッキュと笑い声をあげた。湿った塩ビの床を靴底でこすったときにする音のような声だった。  友一郎は人魚に触れようと手を伸ばした。人魚も友一郎に触れたかったようで、手を差しのべてきた。友一郎の手のひらと、人魚の手のひらがぴったりと合わさる。人魚の手のひらは友一郎のてよりも大きく、そして吸いつくようなしっとりとした感触だった。友一郎が人魚の手を握りしめると、人魚も握りかえしてきた。 『欲しい!』  友一郎はこの人魚を自分のものにできたらと、強く思った。 『人魚というのは、美しく、気高く、そして自由で……』  それでも欲しいのだ。この人魚を自分だけのものにしたい。誰にも知られない場所に、隠してしまいたい――!
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