20エレンの梯子

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 物言わぬ石像と同じように、俺はその日、そこから動くことはなかった。動けなかった、と言い換えてもいいかもしれない。  開けっ放しにした窓から入ってくる嫌な風。暑くもなく、寒くも無い。雨のにおいもしなければ、日の光が絡まっている事も無い。何の味もしなくなったガムを噛んでいるみたいな風が、時折り机の上に乱雑に放り投げたレジュメを揺らしていた。  机上に置いたラップトップが、俺よりも勤勉に、俺よりも勇敢に、軋む音を跳ねのけてファンを回している。その音が、目深に伸ばした前髪を叩いた。 「えー、では次、――さん、お願いします」  コードレスのマウスに手を置いたまま固まっていた俺は、数秒してから、名前を呼ばれていた事に気が付いた。けれど、それが何の意味を持っているか、すぐに咀嚼できない。 「――さん?聞こえていますか?」  それからもう数秒、画面の向こう側のおよそ30人の時間を使ってようやく、俺は自分の置かれている状況を思い出した。  大学の授業、ゼミ、発表順が回って来た事、徹夜で作った手元の資料、なんとか用意したパワーポイント、手書きの雑な原稿。数珠つなぎになった情報の断片が結んだ像は、しかし、教授が望むような発表者のものではなかった。 「ラプンツェル、ラプンツェル。その髪を降ろしておくれ」 「――さん?」 「ラプンツェル、ラプンツェル……」  森を歩いていた俺は、ある日、歌声を聞いたのだ。とても綺麗な声だった。  誘われるかのように森を進んだ俺は、気が付くとある家の前に来ていた。美味しそうな青々とした野ぢしゃが沢山生えている庭を擁したその家の近くから、歌が聞こえている。  しかし、結局歌を歌っている誰かがどこにいるか分からなかったし、家に入る方法も分からなかったから、その日は断念した。  だが、毎日そこに通うようになってからついに、入る方法を突き止めた。魔法使いの女が決まり文句を言っているのを見たんだ。俺は魔法使いの女がいない時を見計らって、その言葉をそっくりそのまま繰り返した。 「ラプンツェル、ラプンツェル。その髪を降ろしておくれ」  すると、見上げるほど高い家の窓から、するすると、黄金を紡いだように綺麗な髪が降りてくる。俺は理解した。これを昇れば、歌声の主に会える、と。  その声の主はきっと、美しい少女で、俺は恋に落ち、これから毎日、魔法使いの女の目を盗んで逢瀬を続けるのだ、と。
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